無断転載と版権問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/14 14:39 UTC 版)
『日本大家論集』が創刊された1887年当時、図書は出版条例、新聞・雑誌は新聞紙条例によって統制されており、今日の著作権にあたる版権は図書にのみ認められていた。また、方式主義がとられていたため、出版条例に基づいて内務省に免許の申請をする必要があった。このため、雑誌記事は基本的に版権による保護を受けることができず、無断転載は法的な規制を受けなかった。 『学海之指針』誌は、創刊号(1887年7月25日付)に掲載された論説4本のうち3本を『日本大家論集』第3編(1887年8月15日付)に無断転載されたが、同誌第2号(1887年8月25日付)では、「固より版権あるにあらざれば、其転載せられしは、本社の名誉なりとでもあきらめる外はなかるべし」と、不快感とともに諦めの態度を示している。 なお、新聞紙条例では、「学術技術統計及官令又ハ物価報告」のみを掲載する新聞・雑誌に限り保証金を収める必要はなかったため、『日本大家論集』は保証金を収めない雑誌として届け出された。このため政治・時事に関する記事は掲載できず、もっぱら『東洋学芸雑誌』『国家学会雑誌』などの学術誌からの転載が行われていた。 ところが、これと同時期に新聞連載の無断出版が問題化したため、政府は1887年12月に出版条例を全面改正(明治20年勅令第76号)するとともに版権条例(明治20年勅令第77号)を制定し、学術・技芸に関する事項を掲載する雑誌について版権登録を認めた。これにより、主要な転載元だった『東洋学芸雑誌』『国家学会雑誌』『学海之指針』『哲学会雑誌』などが軒並み版権を登録し、無断転載できなくなったため、『日本大家論集』は次第に講演筆記を掲載するようになる。もっとも、以後も、版権を登録していない雑誌や、版権条例施行以前に発行された雑誌からの無断転載は続けられている。
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