歴史的経緯と主要人物
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「ゲシュタルト心理学」の記事における「歴史的経緯と主要人物」の解説
ドイツの心理学には、ベルリン学派あるいはフランクフルト/ベルリン学派と呼ばれる学派が存在していた。これは主要な心理学者が集っていた二つの大学の名前を指している。マックス・ヴェルトハイマーはプラハ大学で法学を学び卒業した後、ベルリン大学およびヴェルツブルク大学で心理学を研究するようになった。プラハ大学でエーレンフェルスの講義、ベルリン大学でシュトゥンプの講義を聴いた。ヴェルトハイマーは1912年、運動の知覚に関する画期的な論文『運動視の実験的研究』を発表した。(これはワトソンの行動主義宣言の前年に発表したことになる。) ヴェルトハイマーによる実験では、当時フランクフルト大学の助手をしていたケーラーとコフカおよびコフカ夫人の3人が被験者となった。細い線と太い線を使うと線が拡張するように見えたり、水平な線[ - ]と45度の線 [ / ]を連続して提示すると線が角運動しているように見えたりした。どちらも実際には物理的には存在しない動きが見えるので、これを仮現運動とかファイ現象と呼んだ。(φは「現象」を意味するドイツ語Phänomenの頭文字)。 それ以前、ヘルムホルツやヴントなどは仮現運動の原因として眼球運動との連合を考えたが、それに対しヴェルトハイマーは、真ん中の刺激が左右同時に分かれる刺激図形を実験に用いて、眼球運動は仮現運動の必要条件ではないことを実証した。また、グラーツ学派は「先に感覚があってゲシュタルト質がその感覚データに付与される」と考えていたが、ヴェルトハイマーはそうではなく、最初から感覚のなかにゲシュタルトが組み込まれていると論じた。コフカは後の1935年ゲシュタルトと体制化はほぼ同じ意味であると論ずるようになった。人間は刺激を単純で明快な方向へと知覚しようとする傾向があり、これをヴェルトハイマーはプレグナンツの法則と呼んだ。 ヴォルフガング・ケーラーは、第一次大戦中、アフリカ北西のカナリア諸島のテネリフェ島にある類人猿研究所でチンパンジーを用いた実験を行っていた。チンパンジーが新しい方法で天井から吊り下がったバナナを取ることを観察し、試行錯誤学習に対比して、これを洞察学習と呼び、研究成果を『類人猿の知恵試験』という本にまとめた(1917、1921)。ケーラーはプレグナンツの法則が成立する背景には、それと類似した脳の中枢過程があると考えた。一例を挙げると、ある空間的構造がそのように体験され知覚されるのは脳内の基盤となる過程が機能的に対応しているからだ、としている。このような考え方は心理物理同型説(psychophysical isomorphism)と呼ばれている。 クルト・レヴィンは1930年代にヴェルトハイマーら3人と一緒に研究したことや、ベルリン大学で学位をとった関係でゲシュタルト心理学者のひとりとされている。レヴィンは体験を通じて構造化される空間に興味を示し、それをやがて生活空間と呼ぶようになった。ケーラーが心理物理的な場理論を考えていたのとは対照的に、レヴィンは純粋に心理的な場理論を考えた。これはトポロギー心理学(トポロジー心理学Topologie psychology)との名称で知られるようになった。Topologieとは位相幾何学という意味である。 レヴィンはゲシュタルト心理学を人間個人だけでなく集団行動にも応用した。集団内における個人の行動は、集団のエネルギー場、すなわち集団がもつ性質やどんな成員がいるのかといったことなどによって影響を受けると考え、これによりグループ・ダイナミックス(集団力学)を生み出した。このグループ・ダイナミックスはやがて感受性訓練などにも応用され、臨床的分野へと広がっていった。また、レヴィンは、米国に渡ってから政治的・社会的問題にも関心を示し、実践的な方法としてアクション・リサーチを提唱し、社会心理学などにも影響を与えた。 ベルリン学派の主要な4人は全員米国へ渡り、その地で亡くなっている。1933年にドイツでナチスが政権を握るとユダヤ人学者は教壇から追放された。当時15人いたドイツの心理学教授のうち5人が失職した。コフカは米国のスミス大学の教授として、晩年までゲシュタルト心理学の普及に努めた。なかでも1935年に英語で発表された『ゲシュタルト心理学の原理』は網羅的なものであり、ゲシュタルト心理学が知覚の理論にとどまらないことを人々に広く知らしめた。ケーラーはユダヤ人ではなかったが、職場のベルリン大学への政府の介入を嫌い1935年に米国に亡命した。レヴィンは1933年は海外で講義を行うために旅行に出ており、日本からロシアへの旅の途中でナチス政権について聞き、ドイツに戻らず米国に亡命した。 ゲシュタルト心理学はドイツや日本で大きな潮流となった。 米国ではドイツや日本ほどではなかった。というのは主要な用語や概念が英語という外国語ではうまく表現できず、曖昧なものと考えられたことなどが挙げられる。結局ゲシュタルトやプレグナンツという用語も英語ではなくドイツ語のまま使用された。だが、自身をゲシュタルト心理学者と呼ぶ者は少ないものの、ゲシュタルト心理学に接近したエドワード・トールマンがのちの認知心理学の成立に与えた影響や、グループ・ダイナミックスが社会心理学や行動科学の発展に果たした役割を考慮すると、むしろゲシュタルト心理学がアメリカの主流な心理学の流れを変えたのだと言ってもよさそうである。 フォン・エーレンフェルス(Christian von Ehrenfels 1859年 - 1932年) クルト・ゴルトシュタイン(Kurt Goldstein 1878年 - 1965年) マックス・ヴェルトハイマー(Max Wertheimer 1880年 - 1943年):『運動視の実験的研究』(1912)、『生産的思考』(1945) クルト・コフカ(Kurt Koffka 1886年 - 1941年):『発達心理学』(1921) ヴォルフガング・ケーラー(Wolfgang Kohler 1887年 - 1967年):図形残効、『類人猿の知恵試験』(1917)、『物理的ゲシュタルト』(1920) クルト・レヴィン(Kurt Lewin 1890年 - 1947年):グループダイナミックス、感受性訓練、トポロジー心理学 フリッツ・ハイダー(Fritz Heider 1896年 - 1988年) ヴォルフガンク・メッツガー(Wolfgang Metzger 1899年 - 1979年) ルドルフ・アルンハイム(Rudolf Arnheim 1904年 - ) ソロモン・アッシュ(Solomon Asch 1907年 - 1996年) ガエタノ・カニッツァ(Gaetano Kanizsa 1913年 - 1993年) 中島祥好(Yoshitaka NAKAJIMA Kyushu University 1954年 - )
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