批評・分析
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『鬼ごっこ!』は『PCpress』にて、個性的なシナリオで評価が高くキャラクターは人気があり、前作の『幼なじみは大統領』と同様に高評価の作品であると述べられた。『BugBug』2012年4月号では、同誌に寄稿するライターにより「随所に仕込まれた小ネタとヒロインの魅力を活かしたフェティッシュなエッチが堪能できるバランス型の良作」であると評された。ALcotのスタッフは『中の人などいない!』のビジュアルファンブックにおいて、『鬼ごっこ!』ではシリアスな場面とコメディな場面にメリハリをつけて描いた結果、ユーザーから面白いという感想が寄せられた一方で、バトルシーンを増やして欲しいという要望もあったと語っている。 『鬼ごっこ! Portable』のレビューが『ファミ通』2013年7月4日号に掲載された。4人のレビュアーがそれぞれ7, 6, 6, 6点をつけ、40点満点中25点を得た。お伽話に登場する人物の子孫がヒロインという設定は独特であると指摘され、シナリオは「テンポのいいパロディー満載のノリながらも、甘い展開が目白押し」「軽いノリと散りばめられたパロディーのネタは、好みが別れる」と評された。選択肢の少なさが4人のレビュアー全員から指摘された一方で、メッセージウィンドウや立ち絵が動くシステムや漫符を取り入れた演出に対しては好意的な意見が寄せられた。ゲーム情報サイトの『Gamer』でもお伽話の登場人物の子孫が登場すること、メッセージウィンドウが動くシステム、選択肢の少なさが『鬼ごっこ! Portable』の特徴として挙げられた。お伽話に関連した設定については、お伽話をアレンジして取り込むことで物語全体が引き締まっている、設定に囚われずに自由に表現していると述べられた。メッセージウィンドウに関しては、会話している感覚が味わえて良いと述べられた。また、SD絵のカットインに対しては、場面に合わせて絵が動くので動的な画面でゲームが楽しめるとの感想が寄せられた。
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批評・分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 19:16 UTC 版)
「麦秋 (1951年の映画)」の記事における「批評・分析」の解説
映画評論家の佐藤忠男は、本作について「小津自身の感慨が反映されている」と考察している。小津は生涯独身であったが、佐藤によれば女嫌いであったわけではなく結婚相手として考えていた女性もいたものの、恥ずかしがり屋で相手との仲を取り持ってくれる人物もいなかったために機会を逃していた。また小津は、友人が結婚する際「こういうことは、そばにいて親切に仲介してくれる人がいないとうまくゆかない」と語っている。このことから、佐藤は「(紀子が結婚を決める)矢部という人物は小津の結婚についての願望が込められていたとも思われる」としている。 また、佐伯知紀は本作で描かれている間宮家という家族について「両親と複数の子供たちが揃った、みたところ過不足ない円満な〈家族〉のようでありながら、そこには一点ポッカリと口を開いた暗部が周到に用意されている」と書いている。佐伯によれば、この「暗部」とは戦死した次男の省二のことであり、作中には直接登場しないこの省二という存在が本作の構成上重要な存在となっている。紀子が矢部との結婚を突然のように決めてしまうのも、矢部が亡くなった省二の親しい友人であり、その省二を紀子がずっと慕っていたからこそ、矢部に亡き兄の姿を重ねあわせ、兄の不在を埋めるかのように紀子は彼のもとに嫁ぐのである、と佐伯は指摘している。また、アメリカの作家・評論家ダン・シュナイダーも同様な分析をしている。
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批評・分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/09 10:24 UTC 版)
公開後の評判は芳しくなく、小津が時流に迎合した一作として批判され、一般には失敗作と見なされている。脚本の斎藤は後年のインタビューで「戦争が悪いとあからさまに言うのではなく、敗戦の世相のようなものをちょっと入れたいなと感じていた。そこをもう少し突っ込んでもらいたかった」という内容の発言をしている。小津も「作品というものには、必ず必敗作(ママ)があるね、それが自分にプラスする失敗ならいいんだ。しかし、この『牝雞』はあまりいい失敗作ではなかったね」と後に語り、納得のゆく作品ではないことを自ら認めている。 脚本家の野田高梧は本作について「現象的な世相を扱っている点やその扱い方が僕には同感出来なかった」と述べた。この批判を受け入れた小津は、もっと別の世界を描こうと、野田と共に次回作『晩春』の脚本を手がけることとなる。 小津の監督作品としては失敗作とされていることについて、映画評論家の佐藤忠男は、戦時中に戦意高揚映画を作っていた映画人たちが終戦後に一転して民主主義啓蒙映画を作り出したことや、敗戦の苦しみと未来への希望を描くありきたりの戦後風俗映画が当時は多かったことを挙げ、そういった状況に食傷していた批評家たちが本作をもそうした作品のひとつに分類してしまったことが原因と分析している。 その上で、佐藤は本作について「敗戦によって日本人が失ったもの」を描き出している作品と捉え、その失われたものとは「たんに一人の主婦の肉体的な貞操だけでなく、すべての日本人の精神的な純潔性そのもの」であるとし、若い娼婦が隅田川沿いの空き地で弁当を食べるシーンを引いて「敗戦で日本人は娼婦のごときものとなった、しかしそれでも、空き地で弁当を食べる素朴さは保持しようではないか」というのが本作に込められたメッセージであると述べている。 これと同様の分析として、アメリカの作家・批評家であるジョーン・メレンは、夫婦の子どもの名前がヒロ(浩)であることを挙げ「この名前が天皇から取られたのは偶然ではない」とした上で「彼女は日本人の生活のすぐれた点を守るために身を売ったのである。(中略)小津は日本人に向かって、すぐれた点、つまり占領によって汚されることのないと彼が信じる日本人の生活の貴重なものを守るために、新しい社会を受け入れるべきだと語っている」と書いている。 また、フランスの映画評論家・映画プロデューサーのユベール・ニオグレは、前述のように本格的に野田との脚本コンビを組むきっかけとなった作品であることに着目し「戦後日本の道徳的雰囲気についてのもっとも素晴しい要約のひとつであり、小津作品のなかで戦争の時代を締めくくり、今日もっとも知られた後期作品に先立つ転回点としての作品でもある」とと評価した。 登場人物の造形に関しては、夫が妻を突き飛ばした後に後悔を見せるところに、日中戦争に従軍した小津自身の兵士としての罪の意識が反映されているのではないかと佐藤は考察している。さらに、妻が一度だけ犯した不貞を許せない夫が思い悩むという点は、小津が敬愛していた志賀直哉の『暗夜行路』と共通するという指摘もされているが、小津自身は「似て非なるもの」と述べている。
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批評・分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 09:25 UTC 版)
アニメハックの五所光太郎は、『千年女優』などに参加したアニメーター平尾隆之とのインタビューの中で、主人公・未麻のファンサイト等の制作にマッキントッシュが使われていたことを指摘している。平尾は、今が早い段階からデジタルに期待を寄せていて、それに精通していた人を好んでいたと話しており、「おそらく今さんは、マッキントッシュやフォトショップをアニメづくりに持ち込むことで、自分のイメージに近い絵づくりができそうだと思われていたんだと思います。」と推測している。
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