戦時・戦後
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「東海道本線優等列車沿革」の記事における「戦時・戦後」の解説
1939年(昭和14年)11月 日中戦争の戦況が進み、満州・中国等大陸へ向かう需要が増加、東京駅 - 下関駅間の急行増発と並行して東京駅 - 大阪駅間にも昼行の二・三等急行1021・1022列車(和食堂車連結)、夜行の二・三等急行1023・1024列車(二等・三等寝台車、和食堂車連結)の2往復が新設される。その一方通勤列車なども増発したため、一部地域では平行ダイヤ(優等列車と普通列車の所要時間をほぼ同等とすることで、間隔を詰めて列車本数を増発する方法)化がおこり、一部上り急行列車の所要時間が東京口で延伸した。 1940年(昭和15年)10月 前年に引き続き東京駅 - 下関駅間の急行列車が増発される。その一方で、下りの夜行急行列車の所要時間が一部延伸された。これもまた、通勤列車の増発に伴って平行ダイヤを採用したためである。また東京駅 - 米原間準急701・702列車(現在の快速列車に相当)の格上げにより東京駅 - 名古屋駅間運行という、当時としては短距離の急行列車である二・三等急行1041・1040列車(食堂車非連結)が設定されたほか、急行1023・1024列車は東京駅 - 神戸駅間に延長、急行15列車は東京駅 - 大阪駅間の運転に短縮、急行16列車と急行20列車の順序が入れ替わった。 1940年(昭和15年)12月 輸送力増強を目的として急行15・16列車の三等寝台車と食堂車連結が中止される。 1941年(昭和16年)7月 三等寝台車の使用を中止、全廃となる。列車需要が急増したことによる混雑を緩和するのが目的であった。このほか急行13・20列車、1023・1024列車、1033・1034列車の食堂車も連結が中止された。 1942年(昭和17年)11月 関門トンネルが開通して、東京駅 - 下関駅間運行であった特急・急行列車の多くが、九州まで足を延ばすようになった。これに伴い実施されたダイヤ改正により、「富士」は東京駅 - 長崎駅間運行となり、前述した上海航路への接続列車ともなった。「櫻」は鹿児島駅まで足を延ばすことになったものの、急行列車(7・8列車)に格下げされて愛称も消滅、同時に不定期「燕」も廃止されたほか、東海道・山陽本線の列車番号が整理され、東海道本線内のみを走る定期特急・急行列車の列車番号は基本的に100番台を用いることとなった。 1943年(昭和18年)2月 1941年12月に始まった大東亜戦争(太平洋戦争)を受けて前年10月に閣議決定された「戦時陸運非常体制」に基くダイヤ改正が行われ、列車が各線で大幅に削減される。東海道本線では特急「鷗」が廃止、特急「燕」や急行113・114列車(以前の急行17・18列車)が東京駅 - 大阪駅間運行に区間短縮された。 1943年(昭和18年)7月 それまでの特急列車を「第一種急行」、急行列車を「第二種急行」とする。この時「特急」の呼称は制度上は廃止された。なお、第一種急行にはそれまでの特急「富士」・「燕」の他に、かつての「櫻」であった7・8列車も指定され、列車番号も以前の3・4列車に復した。 1943年(昭和18年)10月 戦時下における観光旅行などの自粛を受けた「決戦ダイヤ」と称される時刻改正が行われ、「燕」は廃止、「富士」は東京駅 - 博多駅間運転に区間短縮されて所要時間も伸びた。その他にも東京駅 - 博多駅間運行の急行5・6列車と東京駅 - 大阪駅間運行の急行105・106列車を統合して東京駅 - 長崎駅間運行の急行5・6列車に再編、東京駅 - 大阪駅間運行の急行111・112・113・114・115・116列車、東京駅 - 名古屋駅間運行の急行125・126列車が廃止されるなど、各線で列車の大幅削減・運転区間短縮・所要時間延伸が行われた。 1944年(昭和19年)4月 「決戦非常措置要綱」に基きダイヤ改正。「富士」が廃止され、第一種急行すなわち特急列車が消滅。その他一等車・展望車・寝台車・食堂車も全廃、これ以外にも各線の列車で大幅に列車本数が削減された。 1944年(昭和19年)10月 それまで大垣駅 - 関ヶ原駅間には25‰の関ヶ原方面へ向かって登り急勾配区間が存在したが、戦時貨物輸送の増強を図るべくそれを10‰に緩和した迂回線が建設され、この時から使用が開始された。なお同区間には垂井駅が存在したが、それへの代替で同迂回線には新垂井駅が下り列車専用の駅として設置された。(新垂井駅はその後、1986年〈昭和61年〉11月に廃止される) 1945年(昭和20年)1月 東京駅 - 鹿児島駅間運行の急行3・4列車は運転区間を東京駅 - 熊本駅間に短縮、下り列車の列車番号は3列車から1列車に変更となる。 1945年(昭和20年)3月 急行列車は全国でも、東海道本線・山陽本線の東京駅 - 下関駅間運行の1・2列車(以前の1・4列車)1往復のみとなる。(1・2列車は同年6月、門司駅まで延伸) 1945年 - 1946年(昭和20 - 21年) この年の春以降激化した連合国軍機による本土への空襲の影響と石炭事情の影響、同年8月の終戦を受けた連合国軍最高司令官総司令部傘下の鉄道司令部による運行指令への変更、さらに連合軍専用列車の運行によるダイヤ変更などより、列車は増発と削減が繰り返された。 1947年(昭和22年)1月 石炭事情が悪化したことにより、列車が大幅に削減され、急行列車・二等車は全廃される。これは日本の鉄道史上、最悪の事態であった。
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戦時・戦後
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「山陽本線優等列車沿革」の記事における「戦時・戦後」の解説
1939年(昭和14年)11月 1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機に勃発した日中戦争の戦況が泥沼化し、大陸方面への往来需要が増加したこともありダイヤ改正が行われ、山陽本線では大阪駅 - 下関駅間に昼行の二・三等急行1025・1026列車と夜行の二・三等急行1027・1028列車が新設される。 1940年(昭和15年)10月 昨年に引き続き輸送需要増大からダイヤ改正が行われ、東京駅 - 下関駅間にも二・三等急行1035・1038列車が新設された。 1941年(昭和16年)7月 戦時体制の強化と列車混雑緩和の目的から全列車で三等寝台車が使用停止となる。 1942年(昭和17年)11月 昨年12月に勃発した太平洋戦争が深刻化する中、この年6月に関門トンネルが開通し下関駅 - 門司駅間が山陽本線に組み入れられた。関門トンネルでの旅客列車の運行が開始されたこの11月に実施されたダイヤ改正では、それまで下関駅どまりであった列車の多くが九州へ足を進めるようになり、特急・急行の列車番号も東海道本線・山陽本線を直通する列車は一桁ないし二桁、東海道本線内のみを走る列車を100番台、山陽本線内のみを走る列車を200番台としたほか、以下の形で列車系統が再編された。 特急列車では「富士」が長崎駅まで足を伸ばすようになったが、「櫻」は鹿児島駅まで延長となったものの、急行7・8列車に格下げとなった。 急行列車では5・6列車を門司駅まで延長し11・12列車、7・8列車を鹿児島駅まで延長し3・4列車、9・10列車を博多駅まで延長し5・6列車としたほか、東京駅 - 下関駅間運行の19・14列車は13・14列車、1035・1038列車は15・16列車、大阪駅 - 下関駅間運行の1025・1026列車は202・203列車、1027・1028列車は204・205列車へ列車番号が変更された。 1943年(昭和18年)2月 戦況が悪化はじめた中でダイヤが改正され、石炭・戦時物資輸送の貨物列車が増発される一方で、旅客列車が大幅に削減されることとなった。7月 それまでの特急列車を「第一種急行」、急行列車を「第二種急行」と呼ぶようになり、1942年11月以前は特急「櫻」だった急行7・8列車は「第一種急行」に指定、列車番号も3・4列車に戻された。 10月 列車がまた大幅に削減され、「富士」は博多駅打ち切りとなったほか、東京駅 - 門司駅間運行の急行5・6列車は東京駅 - 大阪駅間運行の急行105・106列車と統合される形で東京駅 - 長崎駅間運行の急行5・6列車として再編、東京 - 鹿児島駅間運行の急行7・8列車は一等寝台車・展望車連結廃止のうえ下関駅打ち切りの急行15・16列車となり、東京駅 - 門司駅間運行の急行11・12列車は急行7・8列車、東京駅 - 下関駅間運行の急行15・16列車は急行11・12列車に列車番号を変更、大阪駅 - 下関駅間運行の急行202・203・204・205列車は廃止された。 1944年(昭和19年)4月 「決戦非常措置要綱」に基くダイヤ改正が行われ、「富士」が廃止されて特急が全廃となり、そのほかにも東京駅 - 下関駅間運行の急行15・16列車が廃止、一般の営業列車から展望車・一等車・食堂車・寝台車が消滅した。10月 東京駅 - 下関駅間運行の急行11・12列車が廃止となったほか、輸送力増強のため、岩国駅 - 櫛ケ浜駅間で勾配が緩い柳井線を複線化して再び山陽本線とし、それまでの山陽本線は支線の岩徳線へ格下げとなった。 1945年(昭和20年)1月 各線で列車の削減が進み、山陽本線を走る急行列車も東京駅 - 鹿児島駅間運行(急行運転は東京駅 - 熊本駅間)の1・4列車、東京駅 - 門司駅間運行の5・8列車、東京駅 - 広島駅間運行(呉線経由)の7・6列車を残すのみとなった。3月 また列車が削減され、山陽本線を含め日本全国での優等列車は、東京駅 - 下関駅間運行の急行1・2列車(以前の1・4列車)のみとなる。 6月 急行1・2列車、運行区間を門司駅まで延長。 11月 東京駅 - 広島駅間に1往復の急行を設定。しかし1ヵ月後には石炭事情悪化で休止となり、その後も列車の増発と削減が繰り返された。 1947年(昭和22年)1月 急行列車と二等車が全廃される。4月 東京駅 - 博多駅・門司駅間に1往復ずつ、計2往復の急行列車が復活。この後は、各線で急行列車・準急列車が新設・増発されるようになった。 1948年(昭和23年)7月 このとき実施されたダイヤ改正で、東京駅 - 広島駅間に呉線周り1往復の不定期急行列車、東京駅 - 門司駅・広島駅間に1往復ずつの計2往復、大阪駅 - 長崎駅間に1往復、京都駅 - 門司駅間に1往復の、計4往復の不定期準急列車が設定される。その一方で、急行列車の速度が一部低下した。
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