慈円
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慈円 | |
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久寿2年4月15日 - 嘉禄元年9月25日 (1155年5月17日 - 1225年10月28日)[1] |
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号 | 北山樵客 |
諡号 | 慈鎮和尚 |
宗旨 | 天台宗 |
師 | 明雲 |
著作 | 『愚管抄』 |
廟 | 善峯寺、今熊野観音寺、安養寺、延暦寺 |
慈円(じえん、旧字体:慈圓)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧、歌人。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。
父は摂政関白・藤原忠通[2]、母は藤原仲光女加賀。摂政関白・九条兼実、太政大臣・藤原兼房は同母兄にあたる。
経歴

幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)に天台座主・明雲について受戒。治承2年(1178年)、法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継いだ(なお、覚快は生前に別の人物に譲る意向があったが、慈円の兄である九条兼実が慈円に譲らせようと圧迫したと伝えられている。また、行玄から覚快への継承に異論を抱いていた実寛も慈円への継承に反対したため、覚快・実寛両者が没するまで継承できなかったという[3])。
建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。
天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である践祚した懐成親王(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して懐成復位を願う願文を納めている[4]。『愚管抄』には「鳥羽法皇が亡くなった後に動乱が続いて武者(むさ、武士)の世となった」と記しており、建久3年(1192年)や文治元年(1185年)に成立したとされる鎌倉幕府以前から武士の時代が既に始まっていたことを、当時から認識していたようである[5]。また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記[6]には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。
また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧には否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)、9歳の時に慈円について得度を受けている。
歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。『小倉百人一首』では、「おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで」の歌で知られる。越天楽今様の作詞者でもある(歌詞はs:謡物を参照)。
慈円は聖徳太子信仰に篤く、晩年に夢想による十禅師神(日吉社の神、聖徳太子と同体視された)の託宣を深く恃みにしていた[7]。慈円が元仁元年(1224年)に新礼拝講を創始したことで十禅師信仰が確立され、平安末期から盛んになり、鎌倉初期にかけて隆盛した[8][9][10]。慈円は神仏習合の観念を受容し、日吉社の山王権現、最終的に特に十禅師を信仰し、その力で鎮護国家を成し遂げようとした[11]。
墓所としては善峯寺、今熊野観音寺の他、東山区安養寺の宝塔を慈円の墓とする言い伝えもある。
十禅師との子どもの伝承
中世には、十禅師社を拠点とし憑依・託宣を行う巫者集団「廊御子」があり、『廊御子記』(1603年)では、十禅師が稚児に変じて性欲に苦しむ慈円を憐れんで夜な夜な通い慰め、性交から子が生まれたとされ(慈円は「其間ノさいあひの物」を谷底に捨て(山本一は、「さいあひ」は子種を意味することもあるため、これは稚児との性交の後、精液などを拭いとった汚物と解釈している)、その子種が母胎を経ることなく変成して子どもになった)、この子どもが「廊御子」の始祖とされた[7]。このエピソードは慈円の十禅師信仰に根差している[7]。
ただしこれは中世後期の伝承であり、鎌倉初期を生きた実際の慈円の言説とは無関係と言える[12]。ライデン大学のオリ・ポラト(Or Porath)は、十禅寺と慈円の関係は性的なものとして神話化されたと述べている[13]。
関連作品
- 映画
- テレビドラマ
脚注
- ^ 『慈円』 - コトバンク
- ^ “「慈円」―歴史に流れる「道理」を説いた天台僧―”. DANAnet(ダーナネット) (2017年9月15日). 2020年10月11日閲覧。
- ^ 稲葉伸道 著「青蓮院門跡の成立と展開」、河音能平; 福田榮次郎 編『延暦寺と中世社会』法蔵館、2004年。/所収:稲葉伸道『日本中世の王朝・幕府と寺社』吉川弘文館、278-280・303頁。
- ^ 『鎌倉遺文』3202号貞応3年正月「慈円願文」
- ^ 『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』、2020年10月発行、繁田信一、文芸春秋、P3~P4
- ^ 仁治3年正月24日条
- ^ a b c 舩田 2007, pp. 81–82.
- ^ 佐藤 2003, p. 42.
- ^ 菅原 1987, p. 13.
- ^ 山本 2023, p. 104.
- ^ 曽根原 1997, pp. 61–62.
- ^ 山本 1995, pp. 23–24.
- ^ Porath 2022.
参考文献
- 菅原信海「山王七社の形成」『東洋の思想と宗敎』第4巻、早稻田大學東洋哲學會、1987年6月13日、1-19頁、CRID 1050001202467374336。
- 佐藤眞人「日吉社の巫女・廊御子・木守」『巫覡・盲僧の伝承世界 第2集』福田晃・山下欣一 編、三弥井書店、2003年。
- 曽根原理「安居院澄憲の山王信仰」『東北大学附属図書館研究年報』第30巻、東北大学附属図書館、1997年12月1日、45-66頁、 CRID 1050290088539335168。
- 多賀宗隼『慈円』吉川弘文館〈人物叢書〉、1959年。
- (新装版)1989年 ISBN 9784642051538
- (オンデマンド版)[1]2021年 ISBN 9784642751537
- 多賀宗隼『慈円の研究』吉川弘文館、1980[2]。
- (オンデマンド版)[3] 2017年 ISBN 9784642725514
- 鈴木正道『慈円研究序説』桜楓社、1993年。
- 舩田淳一「中世叡山律僧の神祇信仰について--本覚思想との関係から」『日本思想史学 日本思想史学会 編』第41巻、日本思想史学会、2007年9月25日、74-93頁、 CRID 1520290882607897472。
- Porath, Or (2022-08). “Japan’s Forgotten God: Jūzenji in Medieval Texts and the Visual Arts” (英語). Religions 13 (8): 693. doi:10.3390/rel13080693. ISSN 2077-1444 .
- 山本一「慈円と性愛 : 許されないものと許されたもの」『日本文学』第44巻、日本文学協会、1995年、23-30頁、 CRID 1390282680753955456、doi:10.20620/nihonbungaku.44.7_23。
- 山本陽子『物語る仏教絵画ー童子・死・聖地』勉誠社、2023年。
外部リンク
- 國歌大觀. 續 歌集部 - 拾玉集(慈鎭)、木村正辭, 井上頼圀 監修[他] 紀元社書店(国立国会図書館)
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