塹壕突破戦術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 04:52 UTC 版)
大規模な塹壕戦が展開された日露戦争では、塹壕に潜む敵兵を殺傷する手段として小型爆弾を塹壕に投げ込む戦法がとられ、特に日本軍は多大な被害を出した。さらに遠距離の塹壕へ砲弾を投げ込むために、日露双方で迫撃砲が作られた。迫撃砲を英語で「トレンチ・モーター(trench mortar、『塹壕の臼砲』を意味する)」と呼ぶようになったのは、これに由来する。 重機関銃による掃射が発達した第一次世界大戦では、防御側の塹壕をいかに突破するかという戦術に両軍とも頭を悩ませた。 砲撃 第一次世界大戦の戦死者で最も多かったのは、塹壕内で砲撃を受けたことによるものであった。しかし、次第に砲撃をやり過ごすための退避壕が併設されるようになったため、不意打ちの時を除いて、砲撃のみで殺傷するのが難しくなっていった。そして、いざ攻撃側の兵士が塹壕を攻撃する段になると、誤射を防ぐため準備砲撃を止めざるをえず、その間に退避壕に隠れていた兵士が塹壕に戻って迎え撃たれてしまう。それでも、大量の準備砲撃で攻撃を容易にしようという試みがなされた。しかし、長時間の準備砲撃を行うことは、準備段階で敵に攻勢を知らせることとなり、奇襲効果が薄れてしまい、逆に奇襲を優先すれば十分な砲撃ができないというジレンマに陥ってしまう。結局、砲撃だけでは塹壕の防御機能を十分に破壊することは困難だった。 歩兵による突撃 歩兵による突撃を反復して行えば、いつかは防御側の第一線塹壕を占領できるものの、防御側の塹壕は二重、三重のラインで築かれているのが通常であり、悪戯に兵力を消耗させることになりかねず、また第一塹壕線は元の敵陣であるため、防御側の砲兵の照準は完璧であり、攻撃側がその場に留まっていれば砲撃の餌食となってしまう。また、このような犠牲の大きな攻撃を繰り返せば、将兵の損失だけでなく、士気の低下も甚大なものとなる。事実、第一次世界大戦中のニヴェル攻勢の失敗以降、フランス軍では大規模な抗命や反乱が続発した。 毒ガス 毒ガスは、第一次大戦中のイーペルの戦いでドイツ軍が西部戦線において初めて使用した(イペリット)。使われた毒ガスは比重が空気より重いため、塹壕や地下壕の底に溜まり、歩兵に被害を与えることができる。だが、初期の毒ガスは呼吸器系統に作用する塩素系ガスであったことから、防御側の歩兵が防毒マスクを適切に着用すれば、さほど効果をあげることはできなかった。そのため、皮膚に触れただけで作用する糜爛性のマスタードガスや、ガスマスク着用でも防ぐのが難しい催涙剤との併用戦術などが登場した。しかし、これらのガス類は、一度散布するとコントロールすることは不可能であり、進撃する自軍兵士のみならず、風向きによっては自陣にまで被害を及ぼす恐れがあったため却って使い勝手が悪く、やがて大規模に使われることはなくなった。 坑道戦 坑道戦は、防御側の塹壕の地下にトンネルを掘り進み、地下で爆弾を爆発させて塹壕を破壊するものである。イギリス軍はメシヌの戦いで坑道戦を実施し、地下に仕掛けた600トンの爆弾で1万人以上のドイツ兵を殺傷した。だが、この時のトンネルの掘削には2年半の作業期間を要するなど、あまりにも時間がかかりすぎるため、特殊なケースを除けば実用的ではない。 戦車 戦車は元来歩兵の突撃を支援する目的で開発され、ソンムの戦いでイギリス軍が初めて使用した。戦車は、装甲が施され、無限軌道を装着しており、無人地帯の荒れ地や、有刺鉄線のバリケード、機関銃弾をものともせず前進することができた。しかし、防御側が幅の広い対戦車壕を設けると、戦車でも突破しきれず、塹壕突破の決定的手段とはならなかった。また、対戦車銃や野砲により戦車の装甲を破ることが可能であるため、砲兵の一部を対戦車戦闘に従事させることで撃破することは可能であった。 空爆 当初は偵察任務が主だった航空機も、膠着する塹壕戦への突破策として乗員による塹壕への爆発物の投下が試みられるようになり、さらに大量の爆弾を装備・投下できる爆撃機の開発へと繋がっていった。 浸透戦術 浸透戦術は、ドイツ軍がカポレットの戦いや1918年春季攻勢で実施した戦術である。長い塹壕線には、部分的に手薄な地点や防御上の死角がどこかにあり、分隊単位で編成された軽装備の突撃部隊(Stoßtrupp)が、現場の判断でそうした地点を探して突破し、防御側との交戦を避けつつ第二、第三線の塹壕も突破する。複数地点で同時にこの攻撃を実施することで防御側を混乱させ、その間に司令部や砲兵陣地を衝く。指揮系統との連絡や砲兵の支援を失った防御側の前線部隊は無力化されることになる。ドイツ軍は浸透戦術を採用してカポレットの戦いに圧勝し、西部戦線でも前進に成功した。だが突撃歩兵はあくまで軽歩兵であり、限られた装備・補給しか持たないので、防御側が十分な予備兵力を持ち、迅速に戦線の穴を塞ぐと、それ以上の突破を続けることは困難であった。 電撃戦 第一次世界大戦で敗れたドイツ軍は、第二次世界大戦では戦車の集中使用による電撃戦を創始した。まず歩兵部隊が浸透戦術をもって防御側の戦線に穴を開け、防御側の予備兵力がこれを塞ぐ前に戦車部隊が穴から突出し、一挙に敵の背後に回り込む。1939年のポーランド戦(厳密には電撃戦ではなく殲滅戦理論に基づいたものである)や1940年のフランス戦では、ドイツ軍は電撃戦により連合軍をわずか数週間で崩壊させた。しかしその後も、1943年以降のイタリア戦線や、大戦後の朝鮮戦争など、戦車の集中運用が困難な山岳地帯が戦場となった場合は、引き続き塹壕戦が展開された。
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