塾のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)
塾は、広い校地を得られる郊外への移転、さらには早くからの梅子の念願であった「真の女子大学の設立」を目指して、大正11年(1922年)に東京府北多摩郡小平村(現:東京都小平市)に2万5千坪の校地を取得し、塾の拡張・女子大学の設立を目指す募金活動を開始した。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で、大火災に見舞われた東京市中心部に位置する麹町区五番町の校舎は全焼し、女子大学の設立どころか塾の存続すら危ぶまれる窮境となった。この危機に際し、既に63歳になっていたアナ・ハーツホンは、急遽アメリカに帰国し、梅子の実妹、かつ塾の卒業生でサンフランシスコに在住していた安孫子余奈子(1880-1944)の協力を得て、50万ドル(公定為替レートで100万円)を目標とする募金活動を展開した。3年間に渡るアナの献身的な努力により、塾は目標金額を達成する寄付金(総額は85万1784円12銭、利子を加えると100万円を超えた)を得て、塾の復興と小平キャンパスの建設を果たした。 塾は、昭和6年(1931年)に落成した小平キャンパスに移転し、梅子の死去から4年が過ぎた昭和8年(1933年)に梅子を記念して校名を「津田英学塾」に改めた。塾は太平洋戦争の戦禍を乗り越え、戦後の学制改革を経て「津田塾大学」となり、梅子の女子教育への思いを今に継承している。
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