塾の閉鎖とその背景とは? わかりやすく解説

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塾の閉鎖とその背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 08:51 UTC 版)

私塾立命館」の記事における「塾の閉鎖とその背景」の解説

明治3年4月23日1870年5月23日)、塾のあり方不穏感じた京都府庁太政官留守官)が差留命令下し私塾立命館はわずか1年弱で閉鎖されることになる(開設明治2年9月23日1869年10月27日)。このとき、西園寺自身フランス留学準備長崎県にいたため、何もできないまま閉塾を受け入れるほかなかった。後に私塾閉鎖について感想求められ西園寺は、「立命館諸生高談放論するのを、革命思想とでも勘ちがいしてぬきうち止めよと云ってきたらしく、塾はよほど盛んになっていて惜しかったけれど、廃校にした」と述べている。 塾に対す閉鎖命令は、太政官京都留守官出した京都大学取り建て中止」の通達とも深く関係している。明治維新後の東京では「昌平黌」を再興し学制中央機関として「大学校」を設置することが決定していた。これにより京都にあった大学校」(皇学所・漢学所)は必要なくなったして、1869年11月廃止通達出されのである。既に京都大学建て替え準備入っていた京都大学関係者たちは、この通達事実上無視し通達翌月には「京都大学校代(仮大学校)」として大学校開校強行した京都留守官通達では「京都学校」とされた)。東京太政官既成事実として「京都大学校代」の存在認め京都留守官管轄の下で学校存続されたが、結局は教官引き抜きなど諸般の事情により、1870年明治3年7月には廃止されてしまう。当時京都大学校代」は寺町今出川西入ル(現在の同志社大学構内南東端)に位置し京都御所内の私塾立命館」とは目と鼻の先であった京都留守官威信をかけて設立した京都大学校代」がわずか300人ばかり学生しか集められずに開校から8ヶ月余り廃止追い込まれたのに対し、わずか徒歩10程度ところにある一私塾100人もの塾生抱えきれず増築までして対応しているということが、京都留守官逆鱗触れたことは想像に難くない。のちに西園寺公望は、私塾立命館への「差留命令」が京都留守長官の「嫌疑」か「妬心」から出たものに違いない述べとともに、しばらくは閉塾に応じるが、再興時期待ちたい賓師宛てた手紙のなかで述べている。その年の12月西園寺公望留学先フランスへ出発明治13年1880年)まで日本離れることになる。 明治時代入り西園寺家東京移った後、かつて私塾置かれ西園寺邸跡には「白雲神社」が建立され、現在に至っている。

※この「塾の閉鎖とその背景」の解説は、「私塾立命館」の解説の一部です。
「塾の閉鎖とその背景」を含む「私塾立命館」の記事については、「私塾立命館」の概要を参照ください。

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