北米での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:45 UTC 版)
キャリア初期は、ザ・シーク・オブ・アラビア(The Sheik of Araby)のリングネームで中西部や北東部、テキサスなどを転戦。1955年11月18日にはシカゴにてルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、1950年代後半にはディック・ザ・ブルーザー、ウイルバー・スナイダー、エドワード・カーペンティア、ドン・レオ・ジョナサン、バーン・ガニアらと対戦。WWWFの前身団体であるキャピトル・レスリング・コーポレーションではブル・カリーとタッグを組み、ジェリー・グラハム&エディ・グラハムやマーク・ルーイン&ドン・カーティスと抗争、ヘイスタック・カルホーンやスカル・マーフィーとも対戦した。 その後、ザ・シーク(The Sheik)とリングネームを簡略化し、「蛇」「侍女」「火炎攻撃」などのギミックを用い独自のスタイルを確立。1962年5月にはセントルイスでパット・オコーナーを破り、セントラル・ステーツ版のNWA USヘビー級王座を獲得している。1963年10月10日にはアマリロにて、ドリー・ファンク・シニアからテキサス西部版のNWA北米ヘビー級王座を奪取。以降、翌年4月にファンク・シニアに奪還されるまで、フリッツ・フォン・エリック、リッキー・ロメロ、ワフー・マクダニエル、ダン・ミラー、キラー・カール・コックスらを相手に防衛戦を行った。 1964年にデトロイト地区のプロレス興行権を買い取り、NWAビッグタイム・レスリング(NWA Big Time Wrestling)を設立。NWAの会員資格を取得し、プロモーターとしても有力な存在となった。1965年2月6日、ジョニー・バレンタインからデトロイト版のNWA USヘビー級王座を奪取。以降、1980年5月まで15年強に渡り、バレンタイン、ボボ・ブラジル、パンピロ・フィルポ、トニー・マリノ、ジノ・ヘルナンデス、テリー・ファンク、マイティ・イゴールらを破り同王座を通算16回獲得。ビル・ミラー、ルーイン、ザ・ストンパー、アーニー・ラッド、テキサス・マッケンジー、チーフ・ジェイ・ストロンボー、オックス・ベーカーとも王座を巡り抗争を展開した。 他地区にも精力的に遠征しており、カナダのモントリオール地区では1967年にジノ・ブリット、1974年にミシェル・デュボアを下し、フラッグシップ・タイトルのインターナショナル・ヘビー級王座を通算3回獲得。太平洋岸のロサンゼルス地区では1969年にフレッド・ブラッシーやミル・マスカラスとNWAアメリカス・ヘビー級王座を争っている。トロントでは1971年にタイガー・ジェット・シンと抗争、日本初遠征後の1972年10月には、ハワイにてフレッド・カリーからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取した。1974年2月17日にはトロントのメープル・リーフ・ガーデンにて、アンドレ・ザ・ジャイアントとテキサス・デスマッチで対戦。ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでは1978年6月22日、アブドーラ・ザ・ブッチャーと組んでスタン・ハンセン&ミスター・レスリング2号と対戦している。1974年から1978年にかけては、インディアナポリスのWWAにてブルーザーとも抗争を繰り広げた。 ニューヨークのWWWFでは1960年代にブルーノ・サンマルチノやアントニオ・ロッカと抗争。1968年のMSG定期戦では、10月21日・11月18日・12月9日の3カ月連続でサンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。1970年代からは旧友グラン・ウィザードをマネージャーにスポット参戦し、1972年11月18日にはボストン・ガーデンにて新王者ペドロ・モラレスに挑戦。1973年12月14日には、同月10日にスタン・スタージャックを下してWWWF王者に返り咲いたサンマルチノの初防衛戦の相手を務めた。本拠地のデトロイトにおいても、1979年8月25日にボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦している。同年はテネシー地区において、初代ジ・アサシンズのトム・レネストと組んでファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)とも対戦した。 プロモーターとしてもWWWF / WWFやカナダのトロント地区(メープル・リーフ・レスリング)などと提携し繁栄マーケットを築いていたが、日本車輸出量の増大によるデトロイトの景気急落などの諸事情で観客動員が落ち込み、1980年10月にビッグタイム・レスリングは活動を停止。以降はフリーランサーの立場で各地を転戦するようになり、フロリダのCWFではダスティ・ローデスとデスマッチを展開。デトロイト時代の盟友アンジェロ・ポッフォ(ランディ・サベージの父親)がレキシントンで旗揚げしたインターナショナル・チャンピオンシップ・レスリングなどにも参戦していたが、1982年以降はセミリタイア状態となった。 その後、日本でFMWに参戦していた1990年代に入り、アメリカでも単発的に活動を再開。1994年2月5日にはECWに登場し、パット・タナカをパートナーにケビン・サリバン&タズマニアックとタッグマッチで対戦している。 なお、セミリタイア後は後進の指導・育成を手掛け、甥のサブゥーをはじめ、ロブ・ヴァン・ダムやスコット・スタイナーらミシガン出身の選手をトレーニングしている。
※この「北米での活躍」の解説は、「ザ・シーク」の解説の一部です。
「北米での活躍」を含む「ザ・シーク」の記事については、「ザ・シーク」の概要を参照ください。
北米での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:56 UTC 版)
デビュー後から1960年代初頭にかけては素顔の「ディック・ベイヤー(Dick Beyer)」として、地元のバッファローやクリーブランドなど、後にNWFの拠点となる五大湖エリアを主戦場にベビーフェイスのポジションで活動。ダン・ミラー、フレッド・アトキンス、ジョン・トロス、アンジェロ・ポッフォ、ワルドー・フォン・エリックらと対戦し、ボボ・ブラジルのパートナーにも起用された。 1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒールの覆面レスラー「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)」に変身。ロサンゼルスのWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。その後、1964年にも7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、ブラッシー&ミスター・モトなどのチームを破り世界タッグ王座も2回獲得した。 NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションやニック・ボックウィンクルと抗争。サンフランシスコのアメリカン・レスリング・アライアンスでは義兄弟ビリー・レッド・ライオンとのコンビで活動し、1965年にレイ・スティーブンス&パット・パターソンと世界タッグ王座を争った。テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラー(ミスター・アトミック)と組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している。 1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX(Dr. X)」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。8月31日にガニアにタイトルを奪還され短命王者となるも、戴冠中はザ・クラッシャー、マイティ・イゴール・ボディック、ビル・ワットらの挑戦を退けている。 NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座(かつて自身が戴冠していたWWA世界ヘビー級王座の後継タイトル)に挑戦。1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた。 以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、ボックウィンクル、スティーブンス、ラリー・ヘニング、ラーズ・アンダーソン、バロン・フォン・ラシク、イワン・コロフ、ダスティ・ローデスなどのヒール勢と対戦。クラッシャー、ロビンソン、レッド・バスチェン、ワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した。 その後、1973年より全日本プロレスの所属選手となってからも、ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸を中心に、アメリカのリングに時折出場した。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダのトロントやモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFのハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している。
※この「北米での活躍」の解説は、「ザ・デストロイヤー」の解説の一部です。
「北米での活躍」を含む「ザ・デストロイヤー」の記事については、「ザ・デストロイヤー」の概要を参照ください。
北米での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:24 UTC 版)
「ジャック・ヴィルヌーヴ」の記事における「北米での活躍」の解説
1993年にはポロックの手引きもあり、北米レースの登竜門フォーミュラ・アトランティックにフォーサイス・グリーン・レーシングから参戦し、シーズン15戦中5勝を挙げ総合3位に入る。モントリオールのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで行われたレースで優勝したことにより、自国の英雄である父の名を冠したサーキットで、その息子が表彰台の頂点に登ることとなった。 1994年には、チームとともに当時のアメリカン・レーシングの最高峰であるCARTシリーズにステップアップ。第4戦インディ500では2位に入り、第14戦ロード・アメリカでは強豪ペンスキーチームのアル・アンサーJr.、エマーソン・フィッティパルディ、ポール・トレーシーとバトルを繰り広げて追い抜き、初優勝を飾るなど好成績を収めた。最終的に総合6位に入り、この年のルーキーオブザイヤーを獲得。 1995年には体制変更によりチーム・グリーンとして参戦。父ジルの象徴でもあったカーナンバー27を背負い、インディ500では途中2周(5マイル)のペナルティを受けながらも計505マイルを走りきり優勝した。これを含めシーズン4勝を上げ、参戦2年目にしてCART史上最年少のシリーズチャンピオンという偉業を成し遂げた。
※この「北米での活躍」の解説は、「ジャック・ヴィルヌーヴ」の解説の一部です。
「北米での活躍」を含む「ジャック・ヴィルヌーヴ」の記事については、「ジャック・ヴィルヌーヴ」の概要を参照ください。
- 北米での活躍のページへのリンク