初のワールドシリーズ優勝
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「クリーブランド・ガーディアンズ」の記事における「初のワールドシリーズ優勝」の解説
1916年、マイナーで過ごしていたスタン・コベレスキとジム・バグビーをメジャーに昇格させ、ボストン・レッドソックスからトリス・スピーカーを獲得した。コベレスキとバグビーはチームの勝ち頭に成長し、スピーカーはこの年、打率.388で首位打者を獲得した。チームも次第に上昇気流に乗り、1919年のシーズン途中にはチームの中心選手だったスピーカーが選手兼任監督に就任する。 1920年にチームは首位を快走していたが、8月16日のニューヨーク・ヤンキース戦で悲劇が起こる。ヤンキースの投手カール・メイズの投じた球が、当時インディアンスの遊撃手だったレイ・チャップマンの頭部を直撃し、翌日チャップマンが死亡してしまったのである。これはMLBにおいて、試合中のプレーが原因で死亡した唯一の例となり、その後インディアンスの選手達は喪章をつけてプレーすることとなった。チャップマンが死亡したことで、新人のジョー・シーウェルが代役としてレギュラーに定着し、後にシーウェルはMLB最高のコンタクトヒッターと呼ばれるまでに成長する。 シーズン終盤、ジョー・ジャクソンらが大審院で証言を行い、前年に起こったブラックソックス事件の話題が再燃する中、インディアンスはヤンキースとホワイトソックスの追撃を振り切り、初のリーグ優勝を飾った。ブルックリン・ロビンス(現:ロサンゼルス・ドジャース)との対戦となったワールドシリーズでは、5勝2敗でこれを下し、初のワールドシリーズ優勝を果たした。このシリーズではコベルスキが3試合に登板し、全ての試合で完投勝利を収め、ロビンスに合わせて2点しか与えなかった。また二塁手のビル・ワムズガンスがワールドシリーズでは史上唯一の「無補殺三重殺」を成功させている。
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初のワールドシリーズ優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:54 UTC 版)
「ヒューストン・アストロズ」の記事における「初のワールドシリーズ優勝」の解説
2017年は青木宣親をマリナーズから、ブライアン・マッキャンを世代交代を図るヤンキースから獲得。5月30日の敵地ツインズ戦では8回までに2-8とリードされながら一挙11点を奪って16対8と当時シーズン19回目の逆転勝ち。8回までに6点差以上つけられた試合は659回あり、全敗していたが660回目にして初勝利を挙げた。青木はシーズン途中でトロント・ブルージェイズへ移籍したが、アルトゥーベやコレアなどによって強力な打線が構築された結果、チームはレギュラーシーズンで101勝を挙げ、ア・リーグ移籍後初となる地区優勝を果たす。 プレーオフではALDSではボストン・レッドソックスを、ALCSではニューヨーク・ヤンキースをそれぞれ下し、チームとしては12年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではロサンゼルス・ドジャースと対戦。アストロズはMLB史上初めて、ナショナルリーグ、アメリカンリーグ双方からワールドシリーズ進出を果たしたチームになった。第1戦は敗北するも、続く第2戦は延長戦の末に勝利。前回出場した2005年のワールドシリーズでは1勝もできないまま敗退した為、これがチームにとってワールドシリーズ初勝利となった。第5戦で延長10回の乱打戦をアレックス・ブレグマンのサヨナラ打の末に13対12で勝利し、初のワールドシリーズ制覇に王手をかけると、3勝3敗のタイに持ち込まれた後の最終第7戦でダルビッシュ有から初回僅か3球でワールドシリーズ第4戦からの3試合連続本塁打を記録したスプリンガーが出塁し、続くブレグマンの打席で一二塁間のゴロだったのがファーストのコディ・ベリンジャーの送球とダルビッシュのカバーが合わずに悪送球となりエンタイトルツーベースで先制。ブレグマンも2塁に進塁するとアルトゥーベの打席ですかさず盗塁。そのアルトゥーベがファーストゴロを放ち初回2点を奪う。2回に先頭のマッキャンがフォアボールで出塁し続くマーウィン・ゴンザレスがツーベースヒットで無死2塁3塁。レディックは打ち取ったもののランス・マッカラーズ・ジュニアがセカンドゴロで3点目。そして1死3塁でスプリンガーがワールドシリーズ史上初の4試合連続本塁打を記録するなど、5対1で勝利し、球団史上初のワールドシリーズ優勝を果たした。9月にはハリケーンで甚大な被害を受けた地元ヒューストンのファンに最高の形で恩返しした。しかし、後にサイン盗みをしていたことが発覚し、物議を醸す。 2018年は、103勝59敗で2年連続の地区優勝を達成。プレーオフではALDSでクリーブランド・インディアンスと対決。3勝でALCSに進出し、ボストン・レッドソックスと対決。しかし、初戦1勝後4連敗を喫し、2年連続のワールドシリーズ進出はならなかった。 2019年は、前年の103勝を上回る同年最多の107勝55敗と圧倒し、3年連続の地区優勝を達成。ジャスティン・バーランダーが21勝で最多勝利、ゲリット・コールが防御率と奪三振で2冠、ロベルト・オスーナが最多セーブと投手タイトルをアストロズ投手陣が総なめにした。プレーオフではALDSでタンパベイ・レイズと対決。3勝2敗で下し、ALCSに進出し、ヤンキースと対戦。初戦は7-0と惜敗したものの、第2戦から3連勝。第5戦は1-4で惜敗し、移動日を設けず決戦の地をヒューストンに移した第6戦。3勝2敗と突破へ王手をかけたアストロズが、ホームの大声援を背に躍動。アストロズ打線は6回に内野ゴロの間に1点を加え、8回裏まで4-2とリードを2点に保って終盤を迎え、9回にここまで無安打だったヤンキース1番のDJ・ルメイユが右翼スタンドへ起死回生の同点2ラン本塁打を打たれ、4-4と試合を振り出しに戻されたが、直後の攻撃でヤンキースの抑えであるアロルディス・チャップマンに対して2死走者なしから1番のスプリンガーが四球で出塁。そして続くアルトゥーベは、カウント2-1からの4球目、83.6マイル(約135キロ)のスライダーを完璧に捉えると、左中間へのサヨナラ2ラン本塁打となりサヨナラ勝利。劇的な幕切れでアストロズが6-4で勝利し、2年ぶり3度目のリーグ優勝。2013年にナショナル・リーグ(中地区)からア・リーグ(西地区)に変わってからは2度目のリーグ優勝となった。2年ぶりのワールドシリーズでは、ワシントン・ナショナルズと対戦。初戦と2戦目はホームながら連敗、2戦目に至っては13-2と大敗を喫したが、3戦目からビジターで3連勝し、王手をかけた。しかし、第6戦は7-2でまたもホームで敗戦。逆王手をかけられた最終第7戦の天王山は6回まで0-2とリードしていたが、7回にハウィー・ケンドリックの逆転2ランを含む2本塁打で逆転され6-2で負け、2年ぶりの優勝を逃した。また、本拠地でアストロズが敗れたことにより、全7試合でビジターチームが勝つという、ワールドシリーズ史上初の珍事となった。
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初のワールドシリーズ優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:26 UTC 版)
「セントルイス・カージナルス」の記事における「初のワールドシリーズ優勝」の解説
ナショナルリーグに加盟以来、一時的に下位からは脱出はしたものの、20世紀に入ると再び低迷期に入る。しかし、そんなチームが変わり始めるのは、1915年に19歳のロジャース・ホーンスビーが入団してからである。ホーンスビーはその類稀な野球センスでチームのスター選手へと成長。カージナルス在籍中に、6年連続の首位打者、2度の三冠王に輝いた。また、1916年にはブランチ・リッキーがフロント入りし、現在では一般化しているファームシステムを導入、後に数多くの有望選手を送り出すこととなる。リッキーは1919年から1925年のシーズン途中まで監督も務めたが、こちらでは結果を出すことはできなかった。代わってチームのキャプテンとしての役割を担っていたホーンスビーが選手兼任監督に就任。翌1926年には初のリーグ優勝を果たす。 同年のワールドシリーズでは、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグら「マーダラーズ・ロウ」(Murderer's Row 殺人打線)を擁し、当時最強を誇ったニューヨーク・ヤンキースが対戦相手となった。第1戦は落としたものの、第2戦では39歳のピート・アレクサンダーが好投し、初勝利。第3戦ではナックルボーラーのジェシー・ヘインズが自らも本塁打を放つ活躍をみせ、完封勝利を挙げた。続く第4戦、第5戦は敗れたが、第6戦ではアレクサンダーの好投と打線の奮起によって、10対2と大差で勝利した。最終戦ではヘインズが登板し、3回に1点を奪われたものの、4回にカージナルスが3点を取って逆転。しかし6回に1点を奪われ、3対2となった7回に2アウト満塁のピンチを迎える。ここでアレクサンダーが急遽リリーフ登板、打席に強打のトニー・ラゼリを迎えたが、これを見事三振にしとめ、このピンチを乗り切った。その後8回も抑え、9回2アウトとなったところで一塁走者のルースが盗塁を試みたが、この年のMVPに選ばれた捕手ボブ・オファレルがこれを刺して試合終了。カージナルスは初のワールドシリーズ優勝を果たした。 1927年にはホーンスビーとニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)のフランキー・フリッシュらがトレード。フリッシュはこの年、打率.337・208安打・48盗塁を記録し、ホーンスビーの穴を埋める活躍をみせたが、チームは僅差でリーグ優勝を逃した。 1928年はジャイアンツ、カブスとの熾烈な首位争いを繰り広げた末、2度目のリーグ優勝を果たした。この年にはジム・ボトムリーが打率.325・31本塁打・136打点でナショナルリーグMVPを受賞。また42二塁打・20三塁打を記録し、MLB史上2人目の「20-20-20」(シーズン20二塁打・20三塁打・20本塁打)を達成する活躍をみせた。ワールドシリーズでは再びヤンキースと対戦。しかし、いいところなく4連敗を喫した。
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