5年間で3度のMVP
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 03:45 UTC 版)
「アルバート・プホルス」の記事における「5年間で3度のMVP」の解説
2005年はプホルスの後を打つ4番打者のローレンが故障で離脱し、ラリー・ウォーカーやレジー・サンダースがその代わりを務めることに。しかし2人とも峠をすぎていて、プホルスが勝負を避けられるケースが増え、結果としてプホルスの四球は自己最多の97を記録した。踵を痛め1試合欠場しただけで、打撃3部門では打率.330、41本塁打、117打点を記録。プホルスのデビュー年以来4年連続でMVPを受賞していたボンズがこの年は故障でシーズンを棒に振っていたこともあり、プホルスは本塁打王のアンドリュー・ジョーンズや首位打者のデレク・リーを抑え、初のMVPを受賞した。 2006年はシーズン開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のドミニカ共和国代表に選出された。 シーズンは序盤から例を見ない勢いで本塁打・打点を量産し、5月終了時点で打率.315、25本塁打、65打点という成績を残す。これは年間75本塁打、200打点のペースで、ボンズのシーズン本塁打記録73をプホルスが上回るのではとの声も上がった。ステロイド疑惑と無縁のプホルスの本塁打量産は好意的に受け入れられていた。その後、シーズン開幕前から抱えていた腰痛が悪化。6月4日に故障者リスト入りし22日まで休養したため、記録更新はお預けとなった。しかしこの年は打率.331、本塁打49、打点137という成績を残し、本塁打と打点は自己最多を記録した。また、カージナルスがワールドシリーズで優勝し、自身初のワールドシリーズ優勝を経験した。 2007年はシーズン序盤の打撃不振やシーズン終盤の左ふくらはぎ痛がたたり、打率.327、32本塁打、103打点といずれも自身の平均を下回る成績となった。 2008年は一時戦列を離れたこともあったものの、リーグ2位となる打率.357に加え、37本塁打、116打点を記録。カージナルスは地区4位に終わったが、プホルスは本塁打・打点の二冠王のライアン・ハワードを抑え、2005年以来2度目のMVPを受賞している。 2009年はシーズン開幕前に開催された第2回WBCのドミニカ共和国代表は、右肘を手術したため辞退している。しかし、レギュラーシーズンでは序盤から本塁打を量産。6月を終了した時点で打率.332・30本塁打・77打点を記録し、6月終了時点で30本塁打はMLB史上10人目の快挙。しかし、6月30日の試合後の会見でプホルスは「傲慢に聞こえるのを承知で言うけど、2006年の最初の2か月の方が凄かった。30本塁打だか何だか知らないけど、あの当時みたいな凄さはまだないんだ」と語っている。地元セントルイス開催となったオールスターのファン投票では、ケン・グリフィー・ジュニアに次いで歴代2位となる5,397,374票を集めた。オールスター試合前、アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマが始球式を務め、プホルスは捕手を務めた。試合では3打数無安打に終わった。 後半はややペースが落ちたが、自身初となる本塁打王を獲得。本塁打(47)以外にも得点(124)、出塁率(.443)、長打率(.658)、塁打数(374)、敬遠数(44、歴代5位)と数多くの項目でリーグトップに立った。デビュー以来続けている打率3割・30本塁打・100打点も9年連続まで伸ばし、ルー・ゲーリッグと並ぶMLBタイ記録となった。2年連続、通算3度目となるMVPも獲得。1位票を全て集める満票での受賞で、これは2002年のバリー・ボンズ以来7年ぶり、歴代15人目の快挙だった。また通算3度の受賞はボンズに次いで歴代2位タイとなった。 2010年は開幕戦(シンシナティ・レッズ戦)で5打数4安打、2本塁打、3打点という最高の滑り出しを見せると、2003年以来続けているオールスターメンバー選出も果たした(結果は2打数ノーヒット)。8月15日のシカゴ・カブス戦でシーズン30号本塁打を放ち、メジャーデビューから10年連続でのシーズン30本塁打以上を達成。その11日後、8月26日のワシントン・ナショナルズ戦で放ったシーズン34号本塁打は、ニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲス、このシーズン途中にシアトル・マリナーズで引退したケン・グリフィー・ジュニアに次ぐMLB史上3番目のスピードでの通算400号本塁打であった。更には9月11日のアトランタ・ブレーブス戦で3打点を記録したことにより、シーズン100打点以上も10年連続での達成となった。最終的にシーズンを打率.312で終了し、10年連続での3割・30本・100打点の記録達成となった。同時に42本、118打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得。115得点、38敬遠は両リーグ1位を記録した。 2011年2月16日、カージナルスはプホルスに9年1億9500万ドルでの契約延長を持ちかけたが、プホルスが10年契約を希望したため、合意には至らなかった。春季キャンプが始まるまでに合意できなかった場合は、プレーに専念するためにフリーエージェントとなる同年終了後まで交渉しないことを表明した。同年6月19日、ロイヤルズ戦で二塁手からの送球を捕球する際に打者走者と交錯し、左前腕の橈骨(とうこつ)を亀裂骨折した。前半戦に不調に陥ったことや、故障の影響で出場試合数が減ったこともあり、シーズン成績は打率.299、37本、99打点と自己最低に終わった。打率3割・100打点をあと一歩のところで逃し、連続記録は途絶えた。レンジャーズとのワールドシリーズでは第3戦に3打席連続本塁打を記録。1977年のレジー・ジャクソン以来、34年ぶりの快挙だった。チームは優勝し、プホルスは2個目のチャンピオンリングを手にした。 ワールドシリーズ後にFAとなり、残留を求めるカージナルスに加えて、マイアミ・マーリンズ、シカゴ・カブスなど複数の球団が強い関心を示していると報じられた。12月6日にはカージナルス、マーリンズを含む3球団が総額2億ドル以上の契約を提示したことが明らかになった
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