伊藤:建武政権試論―成立過程を中心として―
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「後醍醐天皇」の記事における「伊藤:建武政権試論―成立過程を中心として―」の解説
1998年、伊藤喜良は佐藤進一の「綸旨万能主義」説を否定した。綸旨万能主義というのは、全てを天皇の私的文書である綸旨(りんじ)で決めるという主義である。佐藤は、後醍醐は綸旨万能主義を奉じる観念論的独裁者で、建武政権は、雑訴決断所など綸旨万能主義に制限を加える機関が設置されていくことで、後醍醐の理想主義が挫折していく過程だと捉えた。伊藤はこれに反対し、後醍醐は綸旨万能主義などは考えておらず、初期の綸旨乱発は機関がないための便宜上の措置に過ぎないとした。そして、雑訴決断所等の非人格機関こそが、政権の中央集権政治を補完するための中核機構であると位置付けた。建武政権はこれらの非人格機関が、現実的に整えられていく発展の過程であるとした。 伊藤はまず、「綸旨万能主義」説の最初の論拠とされた、個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)について検討を加えた。佐藤は、この文書を「旧領回復令」と解釈し、元弘の乱で誰かに奪われた所領は元の持ち主に返し、その後の土地所有権の変更は、綸旨(天皇の私的命令文)による個別の裁許を仰ぐように命令したものだと解釈した。 しかし、伊藤によれば、この文書はその前の4月から5月にかけて出された軍法と関連付けて考えるべきであるという。元弘の乱末期、幕府が劣勢なのが明らかになると、討幕にかこつけて略奪を行う不埒な輩が続出していた。後醍醐は、略奪を繰り返す自称討幕軍を「獣心人面」と厳しく非難し、厳罰に処すとした。ところが、兵糧米の徴収は現場の判断に任せるとするなど、命令文にも曖昧なところがあり、実際には元弘の乱が終結した後も中々略奪が収まらなかったと考えられる。伊藤によれば、6月15日の命令は、戦争が終結したので、軍法のうち「現場の判断」という事項を緊急的に停止し、濫妨狼藉の阻止を狙ったものではないか、という。つまり、「旧領回復」や「綸旨万能」とは全く関係がなく、そもそも後醍醐はそのようなことを考えてはいなかった。 実際、同年10月に、陸奥守北畠顕家が、六月十五日口宣案ともう一つの文書(後述の7月25日宣旨)に関連付けて発した陸奥国国宣では、濫妨狼藉を厳しく戒めることと、所領安堵の方針は原則として、(旧領ではなく)現在のものを認めることにしている。また、その後、顕家は当知行安堵(現在の実効所領を安堵)の方針で行動している。後醍醐の股肱の臣である顕家がこのように解釈するのだから、後醍醐の方針もこれと基本的に同じと考えるべきであるという。 6月からしばらくの間、佐藤の指摘のように、しばらく後醍醐は大量に綸旨を発給するようになる。しかし、伊藤によれば、これは新しい支配機構がまだ出来ていないのだから、私的文書で暫定的に対応をするのは当たり前のことであり、綸旨を万能と考えた訳ではなく、綸旨に頼るしかなかったというのが正解であろうという。 同年7月25日、後醍醐天皇は、宣旨(天皇の正式文書)を発し、朝敵を北条一族とその与党のみに限定し、当知行安堵(現在の実効支配領域を保証)の方針を明確に定め、また安堵の取り扱いを各国の国衙(県でいう県庁)に委任することにした。後醍醐が綸旨万能主義を志向したと主張する佐藤は、これを後醍醐の敗北と捉えた。しかし、伊藤によれば事実は逆で、この宣旨こそが建武政権の基本指針であり、本当の全国政権として活動し始めた端緒と見なされるのではないかという。これ以降、建武政権の諸政策はこの7月25日の宣旨の方向に沿って、新しい骨格が築き上げられていく。 8月から9月上旬にかけては、各国の国司に「後の三房」吉田定房や「三木一草」楠木正成など側近中の側近が割り当てられたが、これも7月の宣旨の内容を達成するために地方国衙を充実させようとしたものである。また、鎌倉幕府の御家人制も、一部の武士のみに特権を与えるという前時代的な制度なので廃止した。 最も重要なのが、裁判機関である雑訴決断所の設置である。後醍醐天皇が中央集権化を目指したのは明白だが、佐藤説の言うような綸旨万能主義(天皇個人が全てを裁許する主義)では、客観的に言って天皇の仕事量が多すぎて中央集権化を達成できる訳がないし、後醍醐もまたそうは考えなかったであろう。そうではなくて、統制の取れた非人格機関を設置し、その機関を通じて各国の国衙を効率的に支配することこそが、後醍醐の意図する中央集権化の完成形だったのではないか、とした。したがって、この雑訴決断所こそが建武政権の実体の出発点と言える。翌年1月まで次々と新政を補完するための新機関の設置が行われていった。 また、後醍醐は地方分権制を重視した先駆的な為政者でもあった。東北の半独立統治機構である陸奥将軍府について、伊藤は護良親王・北畠親房の主導によるものという『保暦間記』の説を否定し、後醍醐の主導によるものという当事者の親房自身の証言(『神皇正統記』)を信じるべきであろうとした。そして、後醍醐は、中央集権化を効率よく達成するためには、陸奥のように特色があり、反乱も続く地域に対しては、独自の裁量を持つ自治機関に任せた方が良いと考えたのではないか、という。実際、強大な権限を託された北畠顕家は、東北の乱を瞬く間に鎮めていった。 足利氏が任された鎌倉将軍府についても、この時点では後醍醐は足利氏に全面的な信頼を置いており、やはり東国の反乱に備えて、新政府の藩屏としたものではないかという。いわば中華の皇帝制の藩鎮のようなものではないかという。 また、後醍醐は、国より更に小さい地域単位である郡を重視して、郡に関する法令を度々発しており、郡政所もまた高い機能を有した。これによって、地方統治の階層構造が出来上がり、非人格機関を通して、地方の隅々まで掌握できるようになったのである。 伊藤は、物事を結果論から評価するのは危険であると指摘する。確かに上記の努力にもかかわらず、結果論としては、建武政権は短期間で崩壊した。しかし、崩壊したからと言って、常に歴史的意義がない訳ではなく、まず考察を深めてから判断する必要がある(なお、伊藤自身は後醍醐の政治的手腕の無さが短期間で崩壊した原因であるとしている)。また、建武政権の王権論については、佐藤は建武政権を官僚制・君主独裁制を目指したとしたが、伊藤は封建王制を目指したのではないか、とした。後醍醐が狙ったのは、君主個人の力による独裁ではなく、整備された官制組織と制度を作ることで、最終的な決裁を行うという形の政策だったと考えられる。他に、単に朝廷と幕府を統一したのを「公武一統」と言っただけではなく、本気で公家と武家の区別をなくすことを考えており、武家を多数裁判機関に登用したり、逆に北畠顕家のような文官公家層を武門に抜擢したのは、その一環であろうという。 加えて、伊藤は後醍醐が宋のような国を目指し、そして失敗したことを指摘している。当時の宋は君主専制体制であり、後醍醐は非人格的な機関(雑訴決断所や記録所)を設置し、彼が個別にこれらの統治機関を掌握することで専制体制を確立しようとしたが、このような複数機関の設置は混乱を招くだけであったとした。後醍醐が宋のような君主専制体制を目指し、そして失敗した理由について、伊藤は当時の中国と日本の支配のあり方が大きく異なる点を挙げている。中国では、唐が滅亡したことにより、貴族層が消滅し、五代十国時代を通して、地方に強大な権力を打ち立てていた武人の節度使も消え、宋代に権力基盤となったのは、科挙を経た士大夫と呼ばれる文人官僚達であった。しかし、日本では鎌倉幕府(武家政権・武士・武力)と朝廷(公家政権)という2つの統治機関(封建領主)が存在しており、この両政権が協力し合って中世国家を形成していた。そのため、封建領主階級が存在し、分権的志向が強く、官僚と呼べる層もほとんど存在していなかったため、宋の支配方法(君主専制体制)をそのまま日本に成立させようとした後醍醐の政策には無理があり、公武の対立意識が強いのにも関わらず、強引に「公武一統」を進め、中央集権国家体制を確立し、官僚層を作り出そうとした建武政権は「物狂の沙汰」と称されるようになってしまったのである。
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