伊藤:建武政権試論―成立過程を中心として―とは? わかりやすく解説

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伊藤:建武政権試論―成立過程を中心として―

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「伊藤:建武政権試論―成立過程を中心として―」の解説

1998年伊藤喜良は佐藤進一の「綸旨万能主義」説を否定した綸旨万能主義というのは、全て天皇私的文書である綸旨(りんじ)で決めるという主義である。佐藤は、後醍醐綸旨万能主義奉じる観念論的独裁者で、建武政権は、雑訴決断所など綸旨万能主義制限加え機関設置されていくことで、後醍醐理想主義挫折していく過程だと捉えた伊藤はこれに反対し、後醍醐綸旨万能主義などは考えておらず、初期綸旨乱発機関がないための便宜上措置に過ぎないとした。そして、雑訴決断所等の非人機関こそが、政権中央集権政治補完するための中核機構であると位置付けた。建武政権はこれらの非人機関が、現実的に整えられていく発展過程であるとした。 伊藤はまず、「綸旨万能主義」説の最初論拠とされた、個別安堵法(元弘三年六月十五口宣案)について検討加えた佐藤は、この文書を「旧領回復令」と解釈し元弘の乱誰か奪われ所領は元の持ち主返しその後土地所有権変更は、綸旨天皇私的命令文)による個別裁許を仰ぐように命令したものだと解釈した。 しかし、伊藤によれば、この文書はその前の4月から5月にかけて出され軍法関連付け考えるべきであるという。元弘の乱末期幕府劣勢なのが明らかになると、討幕かこつけて略奪を行う不埒な輩が続出していた。後醍醐は、略奪繰り返す自称討幕軍を「獣心人面」と厳しく非難し厳罰処すとした。ところが、兵糧米徴収現場判断任せるとするなど、命令文にも曖昧なところがあり、実際に元弘の乱終結した後も中々略奪が収まらなかったと考えられる伊藤によれば6月15日命令は、戦争終結したので、軍法のうち「現場判断という事項を緊急的に停止し濫妨狼藉阻止狙ったものではないか、という。つまり、「旧領回復」や「綸旨万能」とは全く関係がなく、そもそも後醍醐そのようなことを考えてはいなかった。 実際同年10月に、陸奥守北畠顕家が、六月十五口宣案もう一つ文書後述7月25日宣旨)に関連付け発した陸奥国国宣では、濫妨狼藉厳しく戒めることと、所領安堵方針原則として、(旧領ではなく現在のもの認めることにしている。また、その後、顕家は当知行安堵現在の実効所領安堵)の方針行動している。後醍醐股肱の臣である顕家がこのように解釈するのだから、後醍醐方針もこれと基本的に同じと考えるべきであるという。 6月からしばらくの間佐藤指摘のように、しばらく後醍醐大量に綸旨発給するようになる。しかし、伊藤によれば、これは新し支配機構がまだ出来ていないのだから、私的文書暫定的に対応をするのは当たり前のことであり、綸旨万能考えたではなく綸旨に頼るしかなかったというのが正解であろうという。 同年7月25日後醍醐天皇は、宣旨天皇の正式文書)を発し朝敵北条一族とその与党のみに限定し当知行安堵現在の実効支配領域保証)の方針明確に定め、また安堵取り扱い各国国衙(県でいう県庁)に委任することにした。後醍醐綸旨万能主義志向したと主張する佐藤は、これを後醍醐敗北捉えた。しかし、伊藤によれば事実は逆で、この宣旨こそが建武政権基本指針であり、本当全国政権として活動し始めた端緒見なされるではないかという。これ以降建武政権諸政策はこの7月25日宣旨方向沿って新し骨格築き上げられていく。 8月から9月上旬にかけては、各国国司に「後の三房吉田定房や「三木一草楠木正成など側近中の側近割り当てられたが、これも7月宣旨内容達成するために地方国衙充実させようしたものである。また、鎌倉幕府御家人制も、一部武士のみに特権与えるという前時代的制度なので廃止した。 最も重要なのが、裁判機関である雑訴決断所設置である。後醍醐天皇中央集権化目指したのは明白だが、佐藤説の言うような綸旨万能主義天皇個人全て裁許する主義)では、客観的に言って天皇仕事量が多すぎて中央集権化達成できる訳がないし、後醍醐またそう考えなかったであろう。そうではなくて統制取れた非人機関設置し、その機関通じて各国国衙効率的に支配することこそが、後醍醐意図する中央集権化完成形だったのではないか、とした。したがって、この雑訴決断所こそが建武政権実体出発点と言える翌年1月まで次々と新政補完するための新機関の設置が行われていったまた、後醍醐地方分権制を重視した先駆的な為政者でもあった。東北半独立統治機構である陸奥将軍府について、伊藤護良親王北畠親房主導よるものという『保暦間記』の説を否定し後醍醐主導よるものという当事者の親房自身証言『神皇正統記』)を信じるべきであろうとした。そして、後醍醐は、中央集権化効率よく達成するためには、陸奥のように特色があり、反乱も続く地域に対しては、独自の裁量を持つ自治機関任せた方が良い考えたではないか、という。実際強大な権限託され北畠顕家は、東北の乱を瞬く間鎮めていった。 足利氏任され鎌倉将軍府についても、この時点では後醍醐足利氏全面的な信頼置いており、やはり東国反乱備えて新政府藩屏したものではないかという。いわば中華皇帝制藩鎮のようなものではないかという。 また、後醍醐は、国より更に小さ地域単位である郡を重視して、郡に関する法令を度々発しており、郡政所もまた高い機能有した。これによって、地方統治階層構造出来上がり非人機関通して地方隅々まで掌握できるようになったのである伊藤は、物事結果論から評価するのは危険であると指摘する確かに上記努力にもかかわらず結果論としては、建武政権短期間崩壊した。しかし、崩壊したからと言って、常に歴史的意義がない訳ではなく、まず考察深めてから判断する必要がある(なお、伊藤自身後醍醐政治的手腕無さ短期間崩壊した原因であるとしている)。また、建武政権王権論については、佐藤建武政権官僚制君主独裁制目指したとしたが、伊藤封建王制目指したのではないか、とした。後醍醐狙ったのは、君主個人の力による独裁ではなく整備され官制組織制度作ることで、最終的な決裁を行うという形の政策だったと考えられる。他に、単に朝廷幕府統一したのを「公武一統と言っただけではなく、本気で公家武家区別をなくすことを考えており、武家多数裁判機関登用したり、逆に北畠顕家のような文官公家層を武門抜擢したのは、その一環であろうという。 加えて伊藤後醍醐が宋のような国を目指し、そして失敗したことを指摘している。当時の宋は君主専制体制であり、後醍醐非人格的な機関雑訴決断所記録所)を設置し、彼が個別にこれらの統治機関掌握することで専制体制確立しようとしたが、このような複数機関設置混乱を招くだけであったとした。後醍醐が宋のような君主専制体制目指し、そして失敗した理由について、伊藤当時中国日本支配あり方大きく異なる点を挙げている。中国では、唐が滅亡したことにより、貴族層消滅し五代十国時代通して地方強大な権力打ち立てていた武人節度使消え宋代権力基盤となったのは、科挙経た士大夫呼ばれる文人官僚であった。しかし、日本では鎌倉幕府武家政権武士武力)と朝廷公家政権)という2つ統治機関封建領主)が存在しており、この両政権協力し合って中世国家形成していた。そのため、封建領主階級存在し分権志向強く官僚呼べる層もほとんど存在していなかったため、宋の支配方法君主専制体制)をそのまま日本成立させようとした後醍醐政策には無理があり、公武対立意識が強いのにも関わらず強引に公武一統」を進め中央集権国家体制確立し官僚層を作り出そうとした建武政権は「物狂沙汰」と称されるようになってしまったのである

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