三原監督時代
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「大阪近鉄バファローズ」の記事における「三原監督時代」の解説
1968年 西鉄との開幕戦で3連勝後、4月を14勝4敗として6月まで首位だったが、夏場以降は失速し、首位の阪急と23ゲーム差の4位に終わる。しかし監督の三原によって選手に自信をつけさせたとされる。三原は家族の問題から退任を申し入れるも、慰留され続投。 1969年 5月までに9連敗を記録するなど低迷、しかしその後18勝1敗2分けと一気に追い上げ、球団初の首位争いを阪急と展開する。互いに直接対決4試合のみを残した10月17日の時点で2厘差で首位を保ち、阪急よりも優位であった。しかし、10月18日からの対阪急4連戦に初戦から3連敗で阪急の逆転優勝を許し、2位に終わる。球団創立以来シーズンの対戦成績で勝ち越したことがなかった南海に対し17勝9敗と初めて勝ち越し、また15シーズン連続で負け越していた西鉄にも15勝11敗で勝ち越した。ドラフト会議では、高校野球で甲子園のアイドルと呼ばれた太田幸司を獲得。 1970年 5月14日に黒い霧事件に関連し球団職員だった山崎晃が外部の人間より八百長(野球協約上の敗退行為)を強要され、監督や選手に敗退行為の依頼を行ったことが報道された。山崎は1967年に当時選手兼監督だった小玉明利を始め、木原義隆、吉沢岳男、高木喬の4名に八百長を依頼したとされる。捜査の結果、依頼された4人については金銭の授受はなく試合で敗退行為を行った確証も得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まったが、山崎については八百長工作を行っていたことが確実になったため、6月15日に野球賭博への関与を理由とした永久追放処分が下された。10月6日、対南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、後任を鶴岡一人に一本化するが招聘に失敗し、コーチの岩本尭が監督に昇格した。
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三原監督時代
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「東京ヤクルトスワローズ」の記事における「三原監督時代」の解説
1971年 三原脩が監督に就任。チームは52勝72敗6分けの勝率.419と前年より盛り返すものの2年連続最下位に終わる。松岡弘は14勝を挙げた。9月27日、二軍はイースタンリーグで初優勝している。 1972年 前年に三原とともに入団した中西太打撃コーチのマンツーマン指導を受けた2年目の若松勉が首位打者、ルーキーの安田猛も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年は最下位を脱出、60勝67敗3分けの勝率.472の4位に浮上。8月12日、二軍は2年連続イースタンリーグ優勝。 1973年 62勝65敗3分けの勝率.488にてチームは2年連続の4位に終わり三原は監督を辞任。11月26日、虫プロダクションの倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「ヤクルトスワローズ」に変更。キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更。
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三原監督時代
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1951年 1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions )となる(球団名変更は3月1日)。西日本からは後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。当初は旧クリッパーズ出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパーズの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパーズの選手を使い続けることで、クリッパーズ出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇している。首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる。 1952年 シーズン途中に、契約が難航していた東急フライヤーズの大スター大下弘を深見安博、緒方俊明とのトレードで獲得。このシーズンは、首位の南海と8.5ゲーム差の3位。 1953年 Bクラスの4位に終わるも、中西太が本塁打王・打点王・最多安打。トリプルスリーも達成している。川崎徳次が最多勝・最優秀防御率を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。 1954年 西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月22日から10月5日にかけて26勝1敗 とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月11日の阪急戦に勝利したことで、西鉄の初のパ・リーグ優勝が決定する。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。 1955年 前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度にわたって首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で大津守が球団初のノーヒットノーランを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。 1956年 4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、最大7.5ゲーム差9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。読売ジャイアンツとの日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。 1957年 この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日に東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成。2年連続の対戦となった巨人との日本シリーズは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。 1958年 南海が新人の杉浦忠が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走。一方西鉄は4月は12勝5敗と好スタートを見せたものの5月は9勝10敗1分け、6月は12勝10敗ともたつく。7月19日の東映戦(駒沢野球場)で、西村貞朗が球団初の完全試合を達成したものの、7月22日からの大阪球場での南海との直接対決3連戦に全敗し、最大11.5ゲーム差をつけられた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、稲尾和久が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。 稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西・豊田・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。 1959年 中西、大下、関口らの故障もあり、投手陣も稲尾以外は島原幸雄が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原は監督を辞任し、大洋ホエールズの監督に就任。西鉄の次期監督には川崎が就任。
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