三原監督時代とは? わかりやすく解説

三原監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:39 UTC 版)

大阪近鉄バファローズ」の記事における「三原監督時代」の解説

1968年 西鉄との開幕戦で3連勝後、4月14勝4敗として6月まで首位だったが、夏場以降失速し首位阪急23ゲーム差の4位に終わる。しかし監督三原によって選手自信をつけさせたとされる三原家族の問題から退任申し入れるも、慰留され続投1969年 5月までに9連敗記録するなど低迷、しかしその後18勝1敗2分け一気追い上げ球団初の首位争い阪急展開する互いに直接対決4試合のみを残した10月17日時点で2厘差で首位保ち阪急よりも優位であった。しかし、10月18日からの対阪急4連戦初戦から3連敗阪急逆転優勝許し2位に終わる。球団創立以来シーズン対戦成績勝ち越したことがなかった南海対し17勝9敗と初め勝ち越し、また15シーズン連続負け越していた西鉄にも1511敗で勝ち越した。ドラフト会議では、高校野球甲子園アイドル呼ばれた太田幸司獲得1970年 5月14日黒い霧事件関連し球団職員だった山崎晃が外部人間より八百長野球協約上の敗退行為)を強要され監督選手敗退行為依頼行ったことが報道された。山崎1967年当時選手監督だった小玉明利始め木原義隆吉沢岳男高木喬の4名に八百長依頼したとされる捜査結果依頼された4人については金銭授受はなく試合敗退行為行った確証得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まったが、山崎については八百長工作行っていたことが確実になったため、6月15日野球賭博への関与理由とした永久追放処分下された10月6日、対南海戦で佐々木宏一郎完全試合達成シーズン終了後三原監督辞任し後任鶴岡一人一本化する招聘失敗しコーチ岩本尭監督昇格した

※この「三原監督時代」の解説は、「大阪近鉄バファローズ」の解説の一部です。
「三原監督時代」を含む「大阪近鉄バファローズ」の記事については、「大阪近鉄バファローズ」の概要を参照ください。


三原監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 10:07 UTC 版)

東京ヤクルトスワローズ」の記事における「三原監督時代」の解説

1971年 三原脩監督就任チーム52726分けの勝率.419と前年より盛り返すものの2年連続最下位に終わる。松岡弘14勝を挙げた9月27日二軍イースタンリーグ初優勝している。 1972年 前年三原とともに入団した中西太打撃コーチマンツーマン指導受けた2年目若松勉首位打者ルーキー安田猛1972年・1973年2年連続防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年最下位脱出6067敗3分け勝率.472の4位に浮上8月12日二軍2年連続イースタンリーグ優勝1973年 6265敗3分け勝率.488にてチーム2年連続の4位に終わり三原監督辞任11月26日虫プロダクション倒産に伴い鉄腕アトムキャラクター使用中止10月26日球団名株式会社ヤクルト球団」、チーム名を「ヤクルトスワローズ」に変更キャラクターも、ツバメモチーフしたもの変更

※この「三原監督時代」の解説は、「東京ヤクルトスワローズ」の解説の一部です。
「三原監督時代」を含む「東京ヤクルトスワローズ」の記事については、「東京ヤクルトスワローズ」の概要を参照ください。


三原監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:36 UTC 版)

埼玉西武ライオンズ」の記事における「三原監督時代」の解説

1951年 1月30日西日本パイレーツ吸収合併して西鉄ライオンズにしてつ-、Nishitetsu Lions )となる(球団名変更3月1日)。西日本からは後の黄金時代主力となる関口清治日比野武加入当初は旧クリッパーズ出身選手反発強く球団上層部からも「クリッパーズ選手を使うように」と介入してくるが、三原反発せずにクリッパーズ選手使い続けることで、クリッパーズ出身選手使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子選手他球団放出したり、解雇している。首位南海と18.5ゲーム差2位に終わる。 1952年 シーズン途中に、契約難航していた東急フライヤーズの大スター大下弘深見安博緒方俊明とのトレード獲得。このシーズンは、首位南海8.5ゲーム差3位1953年 Bクラスの4位に終わるも、中西太本塁打王打点王最多安打トリプルスリー達成している。川崎徳次最多勝最優秀防御率獲得三原1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇他球団移籍させ、大幅に入れ替えている。 1954年 西鉄開幕から11連勝首位に立つが、途中8月22日から10月5日にかけて26勝1敗 とした南海追い上げられ一時首位立たれるなど、南海激し首位争いとなったが、西鉄残り1試合となった10月11日阪急戦に勝利したことで、西鉄の初のパ・リーグ優勝決定する最終的に西鉄90勝、南海91勝だったが引き分け数の差で西鉄勝率上回った。このシーズン2番打者豊田泰光18本に続きクリーンアップ全員20本塁打大下弘22本〉、中西太31本〉、関口清治27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。 1955年 前年とは逆に開幕から南海10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度にわたって首位入れ替わる状況であった6月4日の対近鉄戦で大津守球団初のノーヒットノーラン達成8月24日以降南海首位明け渡さず南海日本プロ野球記録99勝で、前年続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝西鉄2位に終わる。 1956年 4月15日から6月一時期除いて南海一貫して首位守り最大7.5ゲーム差9月上旬時点でも南海2位西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬南海との首位攻防4連戦西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄一時首位に立ち、その後南海首位入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成南海西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄勝率上回った読売ジャイアンツとの日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成1957年 この年南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝記録しこの年南海との対戦成績15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目リーグ優勝達成2年連続対戦となった巨人との日本シリーズ負けなしの4勝1引き分け巨人勝利し2年連続2度目日本一達成1958年 南海新人杉浦忠前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続開幕から首位独走一方西鉄4月12勝5敗と好スタート見せたものの5月は9勝10敗1分け6月1210敗ともたつく7月19日東映戦(駒沢野球場)で、西村貞朗球団初の完全試合達成したものの、7月22日からの大阪球場での南海との直接対決3連戦全敗し、最大11.5ゲーム差つけられた。しかし後半に入ると杉浦調子落とし稲尾和久後半戦チーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月2728日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日先発杉浦途中からリリーフ稲尾との投げ合い10回を引き分けとし、28日には連投先発杉浦打ち崩して初回降板させるなど7対2で勝利し西鉄首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダー連勝したことで、3年連続序盤から首位走った南海逆転して優勝達成となった3年連続対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾好投で4連勝を飾る。 稲尾始めとしてこの当時主力には大下弘中西豊田仰木彬高倉照幸らの好選手擁し野武士軍団」と呼ばれた1959年 中西大下関口らの故障もあり、投手陣稲尾以外は島原幸雄12勝しただけで2勝利投手がなく、4位に終わる。三原監督辞任し大洋ホエールズ監督就任西鉄次期監督には川崎就任

※この「三原監督時代」の解説は、「埼玉西武ライオンズ」の解説の一部です。
「三原監督時代」を含む「埼玉西武ライオンズ」の記事については、「埼玉西武ライオンズ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三原監督時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三原監督時代」の関連用語

三原監督時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三原監督時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大阪近鉄バファローズ (改訂履歴)、東京ヤクルトスワローズ (改訂履歴)、埼玉西武ライオンズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS