ヴァーグナーへの心酔と決別とは? わかりやすく解説

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ヴァーグナーへの心酔と決別

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:10 UTC 版)

フリードリヒ・ニーチェ」の記事における「ヴァーグナーへの心酔と決別」の解説

生涯通じて音楽強い関心をもっていたニーチェ学生時代から熱烈なヴァーグナーファンであり、1868年にはすでにライプツィヒヴァーグナーとの対面果たしている。やがてヴァーグナーの妻コジマとも知遇得て夫妻への賛美の念を深めたニーチェは、バーゼル移住してからというもの、同じくスイスルツェルントリプシェン住んでいたヴァーグナー邸宅何度も足を運んだ23回も通ったことが記録されている)。ヴァーグナー31歳も年の離れたニーチェ親し友人たち集まり誘い入れバイロイト祝祭劇場の建設計画語り聞かせてニーチェ感激させ、一方ニーチェ1870年コジマ誕生日『悲劇の誕生』原型となった論文の手稿をプレゼントするなど、二人年齢差越えて親交深めた近代ドイツ美学思想には、古代ギリシアを「宗教的共同体に基づき美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界」として構想するという、美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン以来伝統があった。当時はまだそれほど影響力をもっていなかった音楽家であると同時にドイツ3月革命参加した革命家でもあるヴァーグナーもまたこの系譜属している。『芸術革命』をはじめとする彼の論文では、この滅び去った古代ギリシア文化とりわけギリシア悲劇)を復興する芸術革命によってのみ人類近代文明社会頽落超克して再び自由と美と高貴さ獲得しうる、とのロマン主義思想述べられている。そしてニーチェにとって(またヴァーグナー本人にとっても)、この革命成し遂げる偉大な革命家こそヴァーグナーその人に他ならなかった。 ヴァーグナー対すニーチェ心酔ぶりは、第一作『悲劇の誕生』1872年)において古典文献学手法をあえて踏み外しながらもヴァーグナーを(同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的に取りあげ、ヴァーグナー自身狂喜させるほどであったが、その後ヴァーグナー訪問次第形式的なものになっていった。 1876年、ついに落成したバイロイト祝祭劇場での第1回バイロイト音楽祭および主演目『ニーベルングの指環初演を観に行くが、パトロンバイエルン王ルートヴィヒ2世ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世といった各国国王貴族囲まれ得意の絶頂にあるヴァーグナーその人自身とのあいだに著し隔たり感じたニーチェは、そこにいるのが市民社会道徳宗教といった既成概念突き破り芸術によって世界救済せんとするかつての革命家ヴァーグナーでないこと、そこにあるのは古代ギリシア精神高貴さではなくブルジョア社会卑俗さにすぎないことなどを確信する。また肝心の『ニーベルングの指環自体出来悪く事実新聞等で報じられ舞台評も散々なものであったためヴァーグナー自身ノイローゼに陥っている)、ニーチェ失望のあまり上演途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから離れていった。祝祭劇場から離れる際、ニーチェは妹のエリーザベト対し、「これがバイロイトだったのだよ」と言った。 この一件前後して書かれた『バイロイトにおけるヴァーグナー』ではまだ抑えられているが、ヴァーグナーへの懐疑失望の念は深まってゆき、二人顔を合わせるのはこの年最後のこととなった1878年ニーチェヴァーグナーから『パルジファル』の台本贈られるが、ニーチェからみれば通俗的なおとぎ話にすぎない聖杯伝説』を題材としたこの作品構想得意げに語るヴァーグナーへの反感はいよいよ募りこの年書かれ『人間的な、あまりにも人間的な』でついに決別の意を明らかにし、公然とヴァーグナー批判始めることとなる。ヴァーグナーからも反論受けたこの書をもって両者決別し再会することはなかった。 しかし晩年ニーチェは、ヴァーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はヴァーグナー愛していた」と付け加えていたという。また同じく発狂後、ヴァーグナー夫人コジマ宛ててアリアドネ、余は御身愛すディオニュソス」と謎めいた愛の手紙送っていることから、コジマへの横恋慕ヴァーグナーとの決裂関係していたと見る向きもある。一方コジマは、ニーチェを夫ヴァーグナー侮辱した男と見ており、マイゼンブーグ充て書簡では「あれほど惨めな男は見たことがありません。初め会った時から、ニーチェは病に苦し病人でした」と書いている。 1873年から1876年にかけて、ニーチェは4本の長い評論発表した。『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』(1873年)、『生に対す歴史利害』(1874年)、『教育者としてのショーペンハウアー』(1874年)、『バイロイトにおけるヴァーグナー』(1876年)である。これらの4本(のちに『反時代的考察』1876年)の標題のもとに一冊にまとめられるはいずれ発展途上にあるドイツ文化挑みかかる文明批評であり、その志向性ショーペンハウエルヴァーグナー思想下敷きにしている。死後に『ギリシア人悲劇時代における哲学』として刊行される草稿をまとめはじめたのも1873年以降のことである。 またこの間ヴァーグナー宅での集まりにおいてマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークという女性解放運動携わるリベラルな女性ニーチェレールー・ザロメ後述)を紹介したのも彼女である)やコジマ・ヴァーグナーの前夫である音楽家ハンス・フォン・ビューロー、またパウル・レーらとの交友深めている。特に1876年の冬にはマイゼンブークやレーともにイタリアソレントにあるマイゼンブークの別荘まで旅行行き哲学的な議論交わしたりなどしている(ここでの議論をもとに書かれレー著書道徳的感覚の起源』をニーチェ高く評価していた。またソレント滞在中には偶然近くホテル宿泊していたヴァーグナー邂逅しており、これが二人があいまみえた最後機会となる)。レーとの交友やその思想への共感は、初期の著作見られショーペンハウエル由来するペシミズムからの脱却大きな影響与えている。 1878年『人間的な、あまりにも人間的な』出版形而上学から道徳まで、あるいは宗教から性までの多彩な主題を含むこのアフォリズム集において、ついにヴァーグナーおよびショーペンハウエルからの離反の意を明らかにしたため、この書はニーチェ思想における初期から中期への分岐点みなされるまた、初期ニーチェのよき理解者であったドイッセンローデとの交友このころから途絶えがちになっている。 翌1879年激し頭痛を伴う病によって体調を崩すニーチェ極度近眼発作的に何も見えなくなったり、偏頭痛激し胃痛苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題抱えており、その上1868年落馬事故1870年患ったジフテリアなどの悪影響もこれに加わっていたのであるバーゼル大学での勤務中もこれらの症状治まることがなく、仕事支障をきたすまでになったため、10年目にして大学辞職せざるをえず、以後執筆活動専念することとなったニーチェ哲学的著作多くは、教壇降りたのちに書かれたものである

※この「ヴァーグナーへの心酔と決別」の解説は、「フリードリヒ・ニーチェ」の解説の一部です。
「ヴァーグナーへの心酔と決別」を含む「フリードリヒ・ニーチェ」の記事については、「フリードリヒ・ニーチェ」の概要を参照ください。

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