メジャー昇格と退団まで
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「ロイ・オズワルト」の記事における「メジャー昇格と退団まで」の解説
2001年5月6日にメジャーデビューすると、リリーフで8試合2勝1敗・防御率1.93という成績を残して先発ローテーション入り。8月には6試合で4勝0敗・防御率1.99という成績を挙げてルーキー・オブ・ザ・マンスに選出されるなど、先発転向後も好投を続けた。シーズン通算では28試合で14勝3敗・防御率2.73を記録。この年のメジャー新人投手の中で防御率と勝率は1位、奪三振数と投球回数はC.C.サバシアに次ぐ2位という活躍だった。また14勝は、ジム・デシェイーズが持つ球団新人記録を15年ぶりに更新するものであった。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではアルバート・プホルスに次ぐ2位となっている。 2002年は20勝まであと1勝に迫る19勝(9敗)を挙げ、防御率3.01・208奪三振と、2年目のジンクスとは無縁の好成績を残す。7月27日から9月8日にかけては球団記録となる9戦9勝を記録し、その間の8月にはピッチャー・オブ・ザ・マンスにも選出されている。サイ・ヤング賞投票ではエリック・ガニエとともに4位に。 2003年には3年目で初の開幕投手となるなど、アストロズのエースとしての地位を確立した。2003年は故障のため登板数が21にとどまったが、2004年以降3年間はロジャー・クレメンスやアンディ・ペティットとともに強力な先発ローテーションを形成。オズワルトはかつて逃した20勝を2004年・2005年と2年連続で達成する活躍を見せた。アストロズはこの両年ともナショナルリーグ中地区2位となり、ワイルドカードとしてポストシーズンに進出。特に2005年は、リーグ優勝決定戦で同地区のカージナルス相手に4勝2敗で勝利し、球団創設44年目で初のリーグ優勝・ワールドシリーズ進出を果たした。この優勝決定戦でオズワルトは、2戦2勝・14イニング2失点の好投でシリーズMVPに選出された。ただ、ワールドシリーズではアストロズはホワイトソックスに0勝4敗で敗れ、世界一には届かず。それでもシーズン終了後、オズワルトはリーグ優勝決定戦第6戦で勝利投手になったご褒美として、球団オーナーのドレイトン・マクレーンからブルドーザーを贈られ「いいクリスマスプレゼントだね」と喜びをあらわにした。 2006年は打線の援護を受けられず、勝ち星こそ伸びなかったものの、防御率2.98で最優秀防御率のタイトルを獲得。これらの活躍を受けてアストロズは同年8月29日、5年総額7,300万ドル(6年目の2012年はオプション)でオズワルトとの契約を延長した。2007年には、1957年以降では6番目の速さとなる191登板目での通算100勝を達成。 2008年も、前半戦こそ不振だったものの、後半戦には32.1イニング連続無失点の球団新記録を樹立するなど、オズワルトはエースとしてチームを支え続けた。しかしこの3年間、アストロズはポストシーズンへ進むことができず。2006年のシーズン終了後にクレメンスとペティットが退団してからは、先発ローテーションでオズワルトに続く2番手以降に力のある投手がいなくなり、またドラフトでの新人獲得を軽視していたためチーム全体の選手層が薄くなったこともあって、チーム力は徐々に落ちていった。 2009年3月、オズワルトは国際大会の第2回ワールド・ベースボール・クラシックにアメリカ合衆国代表の一員として出場。準決勝の日本戦に先発登板するも、1点リードで迎えた4回裏につかまり、城島健司の犠牲フライで逆転を許すなど3.2回6失点の乱調で敗戦投手となって、チームは敗退した。またその後のMLBレギュラーシーズンでは、6年ぶりに投球イニング数が200を下回り、メジャー昇格以来初となる勝利数1桁・防御率4点台と、精彩を欠いた。 2010年、オズワルトは4月5日の開幕戦から5月26日まで10試合連続でQSを記録し、この間の防御率は2.35と好投を続ける。しかしチームはランス・バークマンやカルロス・リーら主軸が軒並み打撃不振に陥り、同日終了時点で16勝30敗の地区最下位に沈んでいた。この状況にオズワルトは、オーナーのマクレーンに代理人を通じて「優勝を狙えるチームへトレードしてほしい。そのためならトレード拒否権は破棄しても構わない」と伝えた。このニュースを受け、前年までの9年間で137勝70敗・防御率3.23という成績を残してきた投手の獲得に複数球団が名乗りを上げた。
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メジャー昇格と退団まで
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「ベン・リビア」の記事における「メジャー昇格と退団まで」の解説
2010年9月7日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビュー。 2011年はAAA級ロチェスター・レッドウイングスでスタートし、ジム・トーミとジェイソン・レプコ(英語版)の故障によって5月4日にメジャーへ昇格。その後はメジャーに定着し、「1番・中堅手」での出場機会が増えた。最終的に、117試合に出場してリーグ7位の34盗塁をマークした。7月15日のロイヤルズ戦では、三塁打を放った際に、二塁と三塁の間でバランスを崩し、宙返りをしながら三塁ベースに到達する“珍プレー”を起こし、話題になった。 2012年は40盗塁を記録した。
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メジャー昇格と退団まで
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「ビル・ホール」の記事における「メジャー昇格と退団まで」の解説
2002年9月1日、シンシナティ・レッズ戦においてメジャー・デビュー。この時は1打数無安打(空振り三振)に倒れたが、翌9月2日のシカゴ・カブス戦では、ジョー・ボロウスキー投手からキャリア初安打となる2点本塁打を放った。 2003年は7月21日にメジャー再昇格を果たし、52試合に出場。8月24日から28日まで3試合連続本塁打を、25日には1試合4安打をそれぞれ放つなど、8月24日から30日にかけて5試合連続安打をマーク。 2004年は初めてメジャーでフル・シーズンを過ごし、126試合に出場。7月18日から26日、8月1日から8日、同13日から20日と、3度にわたって7試合連続安打をマーク。 2005年は、打率.291 ・ 出塁率.342 ・ 17本塁打 ・ 18盗塁と結果を出し、初めて規定打席をクリア。守備では遊撃手を66試合、三塁手を59試合、二塁手を23試合務めた。対左投手の打率は.336、ホームでは.310と相性が良く、5月19日から28日まで9試合連続安打、6月21日にはジェローム・ウィリアムズ投手からキャリア初の1試合2本塁打を放つなど、マルチヒットを39回記録。 2006年はJ.J.ハーディの長期離脱もあって、主に遊撃手として127試合に出場。他に二塁手・三塁手・中堅手としても出場し、打っては本塁打と打点でチーム内二冠となった他、得点、二塁打、三塁打、長打、塁打、四球もチーム・トップと打棒快調。攻守両面の活躍が評価され、全米野球記者協会によるチーム内MVPとグッド・ガイ賞を受賞。35本塁打のうち27本を遊撃手として放ったが、これは遊撃手としては両リーグ最多であり、ロビン・ヨーント(1982年、29本)に次ぐ球団歴代2位の好記録でもある。4月29日から5月2日まで4試合連続本塁打、5月11日から22日まで11試合連続安打、7月8日から8月20日まで遊撃手として35試合連続無失策。 シーズン終了後、日米野球のアメリカ代表チームに選抜され、来日。 2007年2月5日、4年間の長期契約が成立(球団オプション付き)。 同年は運動能力の高さを買われて中堅手にコンバート。正中堅手として、130試合を勤め上げた。35二塁打はプリンス・フィルダーと並ぶチーム最多で、4月16日にはトッド・コフィ投手からキャリア初のグランドスラムを、6月20日にはバリー・ジト投手から生涯2発目となるグランド・スラムを、6月27日にはデーブ・ボルコウスキー投手から通算500本目となる安打を、それぞれ放った。6月12日のデトロイト・タイガース戦ではジャスティン・バーランダーにノーヒットノーランを許し、チームは敗れたが、ホールは3四球を選び、3度出塁している。しかし7月に足首を捻挫し故障者リスト入りしたこともあり、前半戦の打率.271に対して後半戦は打率.226と失速した。なお、ホールは野球普及のための啓発活動にも取り組み、シーズン終了後の12月15日にはアフリカ系アメリカ人の少年少女14人を引率して、カンザスシティにあるニグロリーグ博物館を訪れた。これは、今やMLB全体に占める割合が9.2パーセントにまで落ち込んだと言われる黒人の競技者人口を増やすためのツアーで、ホールは「我々に出来ることは小さなことだが、わずかなりとも増加につながることを期待したい」と願いを込めた。 2008年は三塁手として113試合を務め、4月には月間本塁打を7本放ったが、以後低空飛行が長く続いた。6月にはスタメンをはずされたことに激昂し、首脳陣にトレードを願い出た。7月21 - 22日にかけて2試合連続決勝弾を叩き込んだものの、打撃成績は平凡な数字に終わり、「遊撃 - 中堅 - 三塁と立て続けにタライ回しにされたことが、バッティングに悪影響をもたらしているのではないか」と懸念されている。 2009年8月11日にDFAとなった。
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