マスカットのブーサイード朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 11:40 UTC 版)
「ブーサイード朝」の記事における「マスカットのブーサイード朝」の解説
19世紀末からオマーンはマスカットを拠点とするブーサイード朝の国家と、ニズワーやルスタークなどの内陸部の都市を支配するイマームが支配する国家(オマーン・イマーム国)が並立していた。カーブース・ビン・サイードの即位に至るまでのブーサイード家の君主とイマームの支配が重複する期間は、「空白の一世紀」と呼ばれている。 カニング裁定はオマーンの社会から受け入れられず、ブーサイード家の内部でマスカットの支配者の地位を巡る争いが勃発する。ソハールの知事を務めていたサイードの第六子トゥルキーはマスカットの支配者の地位を要求してスワイニーと争い、スワイニーとトゥルキーが和解した後、1866年にスワイニーは息子のサーリムによって暗殺される。支配者の地位を求めるトゥルキーはサーリムを攻撃するが、イギリスの意向によってサーリムとトゥルキーは停戦し、トゥルキーは子のファイサルを連れてグワーダルに移住する。1868年にサーリムは傍系のアッザーン2世によってマスカットから追放され、イマームに選出されたアッザーン2世の下で一時的にイマームによる支配が復活するが、1871年にアッザーン2世はトゥルキーとの戦いで敗死する。1874年、1877年、1883年にマスカットはオマーン国内の反対勢力の攻撃を受け、これらの反乱はイギリスと一部の豪族の支援によって鎮圧された。トゥルキーの死後からマスカットの支配者の地位は安定して継承されるようになり、ブーサイード朝の君主は「スルターン」の称号を使用するようになる。 ファイサルの治世の初期は一族や内陸部の有力者と良好な関係を保ち、ザンジバルから財政支援を得る順調なものだったが、やがて反イギリス勢力からはファイサルを敵視するようになった。1891年にオマーンはイギリスとの間でオマーンの土地の領有権をイギリス以外の国家に認めることを禁止する旨の条約を締結する。1895年にザンジバルがマスカットの支配を主張すると、これに同調する国内の有力部族がマスカットの王宮を占領し、助けを求めたイギリスから支援を得ることはできなかった。ファイサルはインド洋におけるイギリスの進出を弱めるため、フランスとロシアへの接近を試みたが、イギリスの掣肘を受ける。1913年に内陸部の有力部族がイバード派のイマームを選出して反乱を起こし、ニズワ、イズキ(英語版)、サマーイル(英語版)などの都市が反乱軍に占領される中、同年10月にファイサルは肝臓癌のため急死する。 ファイサルの跡を継いだタイムールは1920年にイギリスの仲介によってスィーブ条約(英語版)を締結し、イマームの政権を承認した。内戦による国庫の消耗と経済の停滞によって財政はより悪化し、イギリスの借款に頼らざるを得なくなったオマーンは事実上のイギリスの保護国となる。タイムールは独立の維持のためフランス、オスマン帝国との交渉にあたるが計画は挫折し、やがて政務への熱意を失い、1918年に病気の治療と称してインドに渡った。1920年に一度退位を表明したタイムールはイギリスの説得によって退位を思いとどまるが、帰国後は南部のドファールに滞在し、再びインドとの間を往来するようになる。1932年に内乱と外圧の対処に疲れ果てたタイムールは政務から退き、スルターンの地位を息子のサイードに譲る。
※この「マスカットのブーサイード朝」の解説は、「ブーサイード朝」の解説の一部です。
「マスカットのブーサイード朝」を含む「ブーサイード朝」の記事については、「ブーサイード朝」の概要を参照ください。
マスカットのブーサイード朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 11:40 UTC 版)
「ブーサイード朝」の記事における「マスカットのブーサイード朝」の解説
サイードは財政の改善のために支出を抑制し、独立を維持するために日本、アメリカ合衆国、フランス、イタリア、インドなどを歴訪した。石油が埋蔵されているオマーン内陸部での支配の確立のため、1937年から1945年末にかけてサイードは内陸部の部族勢力との和解、部族間の紛争の仲裁を行い、政策の成功によって王国の権威と諸部族からの信頼が高まった。 1952年、サウジアラビア王国がブライミーに侵入する事件が起きる。サイードはイマーム政権と友好を維持していたが、イギリス系の石油会社がオマーン内陸部での試掘を強行したため、ジャバル・アフダル戦争と呼ばれる内戦に発展する。サイードの要請を受けたイギリス軍の空爆によってイマーム政権は壊滅するが、ガーリブ・ビン・アリーをはじめとするイマーム政権の中心人物は周辺のアラブ諸国に亡命し、二つの政権の対立は1971年まで国際連合でオマーン問題として扱われ続ける。サウジアラビアに亡命したガーリブらは出版活動を通して政治宣伝を展開し、1960年代前半までサウジアラビアで訓練を受けたゲリラがオマーンで破壊活動に従事していた。内外の戦乱に必要な軍費を調達するため、サイードはグワーダルを放棄するが、イギリスに軍事的・経済的に依存した状態はなおも続き、1958年にサイードはサラーラに移住する。 サイードが実施した支出の抑制は独立の維持のための手段から目的そのものに変化し、1964年の石油の商業的清算が確認された後も石油によって得られた利益を積極的に投資しようとはしなかった。オマーン国内では市民の行動に厳しい制限と監視が加えられ、サイードの政策には民衆だけでなく王族も不満を抱くようになっていた。1965年にサラーラで反乱が発生し、翌1966年にはサイードの暗殺未遂事件が起きる。イギリスは1970年までのペルシア湾岸地域からの撤退を表明するが、オマーン問題で国際的に孤立したサイードは1960年代のドファール戦争で有効な手を打つことができず、アラビア半島南部を起点とした共産主義勢力の伸張への警戒が高まった。親イギリス・西洋風の思想を持つ王子カーブースはサラーラで事実上の軟禁状態に置かれていたが、1970年に国王サイード派のイギリスのマスカット政務官が退任したため、イギリスはカーブースの支持に傾き始める。サラーラやマスカットではカーブースの支持者の輪が広がり、1970年5月にはサイードの叔父ターリクがカーブースへの協力を約束した。7月23日にクーデターは決行され、サイードは退位文書に署名した後、バーレーンを経由して移送先のイギリスで没した。 サイードを廃して即位したカーブースは国名をマスカット・オマーンから「オマーン・スルタン国」に改め、従前の鎖国政策を転換して国際連合への加入による国際社会への復帰を試みた。カーブースは首相に任命したターリクとともにイラン、サウジアラビア、アルジェリアで開催されたアラブ・サミット、ロンドン、パリ、ワシントンD.C.を歴訪し、1971年9月29日にアラブ連盟への加入を果たした。1971年9月30日にオマーンの国連加盟が承認され、同時にこれまでイマーム政権を支持していたアラブ諸国もイエメンを除いてブーサイード家のスルターンをオマーンの正統な支配者として承認した。
※この「マスカットのブーサイード朝」の解説は、「ブーサイード朝」の解説の一部です。
「マスカットのブーサイード朝」を含む「ブーサイード朝」の記事については、「ブーサイード朝」の概要を参照ください。
- マスカットのブーサイード朝のページへのリンク