フルートランズ
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「ルイーザ・メイ・オルコット」の記事における「フルートランズ」の解説
1842年にブロンソンは、失意の彼に成功体験を与えたいと考えたエマーソンの援助で渡英し、テンプルスクールを真似て作られた「オルコット・ハウス」を見学し、彼の支持者のグループに会って自信を深め、弟子の神秘思想主義者チャールズ・レーンを伴って帰国し、オルコット一家に加わった。1843年、父ブロンソンはエマーソンを理事に、レーンを後援に、妻の兄の資金援助を受けて、自らの「新しいエデン」であるユートピア的農業共同体フルートランズ(英語版)(Fruitlands、フルーツランド)を設立した。この時期アメリカ東部を中心に、同様の理想主義的共同体がいくつも建設されたが、理想と現実の落差に打ちのめされて次々消滅した。 オルコット一家は、他の6人のコミュニティ参加者の家族と一緒に移り住んだ。ブロンソンは家族の枠を広げることで、互いの精神を高尚にする助けになると考えていた。イギリスで新規メンバーを探すための旅行は、エマーソンの資金提供に頼っており、農場経営の資金はレーンが負担した。自給自足を目指し、市場や金銭との接触を可能な限り断つことを目指していたが、農園の名前と裏腹に土地は痩せており果樹は少なく、農業の経験者はメンバーの中に1人しかおらず、無計画に始まったそのコミュニティは悲惨な結果に終わり、1843年から1844年の短い期間で解散した。父ブロンソンは肉食やセックスを避けることでエデンの園を再現できると考え、フルートランズでは、菜食を推奨し、彼らは肉、魚、牛乳、卵、バター、チーズを食べず、食事は全粒粉パン(ブロンソン自身が作ったもの)、果物、野菜、そして冷水に限られていた。彼らは調理で野菜の「生命の力」が失われると考え、生食を実践した。綿と砂糖は奴隷労働の産物であり、羊毛は羊を、絹は蚕を、革は牛を、蜂蜜は蜜蜂を犠牲にしているとして拒否し、甘いものはなかった。また、肥料を使った農作物などを「汚染物質」と考え肥料の使用を拒み、当時農業に必要だった動物労働を否定し、牛の助けを借りずに人力で畑を耕した。多くの本を所有していたが、動物製品に由来するランプやろうそくを使用できないため、夜に読書することはできなかった。アルコール、カフェイン、温水、セックスなどを刺激物とみなして拒否し、体を浄化しようとし、道徳的に生き、いかなる形の搾取も避けることによって精神を浄化しようと考えた。清らかな農業の実践と哲学的な議論により、より深い魂の目覚めをもたらす理想の生活は、非現実的であり、柱となるリーダーも欠けており、すぐに問題だらけとなった。食べ物も足りず、不健康な生活の中、アッバは娘たちを空腹や寒さから守るためにたびたび違反行為をしたため、レーンはアッバの精神性の欠如を批判した。レーンは近くのシェーカー教徒の共同体のように家族を理想の生活から切り離すべきと主張し、アッバが共同体全体よりも家族への愛情を優先させていると非難し、アッバは悩むブロンソンに強く意見し、ブロンソンとレーン、アッバの人間関係は悪化した。 ブロンソンは娘たちに日記をつけることを教育の手段として奨励しており、家族は互いの日記を読み、書き込む習慣であった。フルートランズでも教育としての日記は推奨されており、オルコットはしきりに「いらいらした感情」と、両親の理想に達しない駄目な自分に対する自己嫌悪を書いており、また疲れ切った母親を鋭く観察している。チャールズ・レーンはほとんどの勉強を見ていたが、オルコットはそれを苦痛に思っていた。まだ思春期前の10歳の少女だったオルコットは、父の理想郷建設の中で、経済的逼迫、両親の不和、家族崩壊の危機的状況を体験した。姉アンナとオルコットは、母の苦労、父がうまくいかない共同体にかかりきりで他を顧みないこと、小さな家で他人と暮らす不便さなどに心を痛め、父がいなくなってしまうのではないかと心配し、「前の夜に父と母とアンナと私は長い話をしました。私はとても不幸でした、そして私たちは皆泣きました。私は神様に、私たちみんなを一緒にいさせてくださるように祈りました。」と日記に書いている。 労働の割り当ては公平なものではなく、ブロンソンとレーンは新しいメンバーを勧誘するために各地を駆け回り、他のメンバー、特に恒常的な唯一の女性メンバーであったアッバに重労働を任せ、農耕のほとんどは彼女が行い、他人ばかりのコミュニティに残され「ガレー船の奴隷のように」働きづめた。ブロンソンとレーン達は精神的リーダーとして思索にふけり、収穫シーズンに講演旅行に出かけ、コミュニティのメンバーはブロンソンが旅行と哲学に多くの時間を費やし、農業に十分時間を使っていないことに不満を抱いた。アッバは、女性メンバーの一人がルールを破って追放されコミュニティ唯一の大人の女性になると、すべての女性の労働を背負うことになり、訪問者の「ここには労役を担う動物はいないのですか?」という質問に「ただ一人女がおります」と忌々しそうに答えている。アッバはただ一人の女性労働者として寒さや飢え、身体的痛みに苦しみ、それを娘たちに訴え、「この生活が、わたしの心まで奪い取らないことを望みたい」と書いていた。 組合のストで野菜の出荷が止まり、家計の苦しさを痛感することもあった。冬が近づくにつれ、食料も薪も少なく、リネンの薄い服ではとてもやっていけないことが明白になった。母アッバは真冬になると兄の助けで近くの農家を借りて娘たちと避難し、父ブロンソンは一人フルートランズに残されたが、数週間後に妻の説得に応じ、家族に合流した。エマーソンは冷たく、「彼らの教義自体は精神的だが、彼らは結局いつも私たちに、『たくさんの土地とお金をください』と言うだけで終わる。」と述べている。オルコットは現実的な人間だったため、超絶主義の浮世離れした高尚さを目指す哲学を完全に支持することはなかったが、超絶主義者たちの自立と個性を重視する考え方には影響を受けた。また、フルートランズでの苦しい経験、耐え忍びあくまで父を立てる母の姿が、母の重荷を軽くし喜びを与えたい、家族を豊かにしたいというオルコットの激しい野心に火をつけた。オルコットは子供のころ、「私がお金持ちで、いい子で、そして今日一日みんな幸せな家族だったらいいのに("I wish I was rich, I was good, and we were all a happy family this day.")」と日記に書いており、貧困から抜け出そうと駆り立てられていた。 11歳のオルコットに、母アッバは「わたしはあなたが、こんなに良く働く娘になるであろうとは思いましたし、またわたしは、からだが弱くて、あなたをかわいがるお母さんにはなれるけれど、毎日のパンは、あなたに稼いでもらうことになろうとも思っていました」と語っていた。のちに父への手紙で、作家としての目標は「オルコット家に生まれながらも自分を養うことができる」と証明することだと書いている。
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