フジオ・プロ設立とは? わかりやすく解説

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フジオプロ設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:58 UTC 版)

赤塚不二夫」の記事における「フジオプロ設立」の解説

1962年昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」連載を開始し、一躍人気作家となる1964年昭和39年)、『おそ松くん』第10回昭和39年度)小学館漫画賞受賞1965年昭和40年)、長谷邦夫古谷三敏横山孝雄高井研一郎等と東京都新宿区十二社現在の西新宿)にフジオ・プロダクション設立1969年株式会社化している。この年長女のりえ子が誕生。また1963年に、トキワ荘時代仲間設立したアニメーション製作会社スタジオ・ゼロ参加1966年昭和41年)には『おそ松くん』スタジオ・ゼロ製作により毎日放送NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化され、赤塚監修として関わっている他、主題歌2本の作詞手掛けている。 1967年昭和42年)には『週刊少年マガジン』講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん『もーれつア太郎』1971年昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作相次いでテレビアニメ化された。 1970年昭和45年3月母親不慮ガス爆発事故入院一命取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血発症して入院となる。その後容態急変する赤塚懸命呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死態となり8月20日59歳死去したこの年に妻と別居態となり、12月にはスタジオ・ゼロ事実上解散となった1970年11月22日-23日にかけて10年振り新潟帰郷サイン会では約300色紙1枚1枚丁寧にイラスト描きクラス会にも参加した。「サイン会の時ももっと手を抜いてと言われたけど、それができない故郷の子供たちにそれができないんです」と語り以後晩年に至るまで、新潟には幾度となく訪れ同級生との交流ファンサービス行っている。 1971年昭和46年5月、既に『少年サンデー』での新連載決まっていたもの赤塚は既にアメリカ在住していた森田拳次との約束と『MAD編集部への取材との口実で、長谷滝沢解、そして当時交際していた愛人女性とともに渡米。2か月滞在し入稿締め切りが迫る中でサンデー担当編集者である武居俊樹宛てに新連載タイトル入った旨を記した手紙自由の女神との記念写真送り付ける。そのタイトル『レッツラゴン』で、写真そのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。当初設定次第有形無実となり、劇画文芸作品までも化し武居が「タケイ記者」として作品登場して赤塚苛め抜く描写など、ナンセンス越えたシュールアナーキーなストーリー展開連載当時はなかなか理解されなかったという。この年、元・スタジオ・ゼロアニメーター吉良敬三らとアニメーション制作会社不二アートフィルム」を設立1981年フジオプロより独立)。 1971年昭和46年9月25日『天才バカボン』日本テレビ系列放映開始1972年昭和47年)に『天才バカボン』他の作品文藝春秋漫画賞受賞。この受賞きっかけとなり、週刊文春で『赤塚不二夫ギャグゲリラ』の連載スタートし10年超えるロングランとなる。 また同年フジオ・プロ財政的な余裕生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌まんがNo.1』を創刊多忙を極める赤塚編集作業携わることが不可能だったため、実質的な編集長長谷務め赤塚荒唐無稽なイメージ伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字出し1973年昭和48年)に6号休刊1973年昭和48年11月5日3年別居生活を経て妻・登茂子と正式離婚1974年昭和49年)、「週刊少年マガジン」(1974年1月6日第1号掲載特別企画ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫秘密大百科」において、ギャグ一環として実験的に山田 一郎」(やまだ いちろう)とペンネーム改名することを宣言。「週刊文春」(1974年1月7日号)掲載の『ギャグゲリラ』を皮切りに『天才バカボン』『レッツラゴン』を含む連載中の作品、新連載作品読み切り作品等全てのタイトルを「山田一郎名義執筆するも、広告サイドから苦情があり3か月元に戻した一方でこの年税務署調査税金支払い長期渡り滞納していることが発覚延滞金だけで6,000万円ともされた。原因フジオプロ経理担当者横領よるもの被害額は二億円とも言われ実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚この人物の将来考え告訴することはなかった。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏芳谷圭児といったフジオプロ所属漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロ退社それぞれのスタッフ引き連れ自身らの制作プロダクション・ファミリー企画設立した。 なお、この年1974年)にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画登竜門赤塚賞」が設立された。

※この「フジオプロ設立」の解説は、「赤塚不二夫」の解説の一部です。
「フジオプロ設立」を含む「赤塚不二夫」の記事については、「赤塚不二夫」の概要を参照ください。

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