バージニアとメリーランド
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「フランシス・ニコルソン」の記事における「バージニアとメリーランド」の解説
ニコルソンは1692年までハワード・オブ・エッフィンガム卿の下でバージニア植民地副総督を務めた。ウィリアム・アンド・メアリー大学創設の推進者となり、初代理事の一人に指名された。植民地民兵隊の改善に動き、植民地に貿易港を増やすことを認めた。港について植民地の大商人の間で競争を増やすものと見なす者もいたが、彼等から大した反対も無く進んだ。この期間に、ニコルソンは植民地における王室支配の高いレベルの代表者の1人だった。北部の植民地では王室支配が排除されており、南部の他の植民地は領主総督が治めていた。ニコルソンは、共通の社会秩序を作り上げ、防衛を強調させるために、領主植民地を王室領に転換することを含め、できるだけ早く全ての植民地に王室支配を確立するよう、国王に推奨した。 エッフィンガム卿は1692年2月に総督を辞職し、ニコルソンとアンドロスの間で次の総督職を巡る争いが始まった。アンドロスはロンドンにあって上級の人物であり、その地位を与えられ、ニコルソンを大いに悩ませることになった。このことが2人の間に成長していた嫌悪感を深まらせることになった。当時の批評家の1人は、ニコルソンが「特にエドマンド・アンドロス卿に不満を抱いており、それ以前にあったことに特別憤慨したことがあった」と記していた。ニコルソンはメリーランドの副総督になることで宥められ、その時からアンドロスの排除のために動いていた。アンドロスが1692年9月に到着すると、ニコルソンは彼を愛想よく出迎え、その後にロンドンに向かった。 ニコルソンは、メリーランド植民地総督のライオネル・コプリー卿が死んだ1693年に、まだイングランドに居た。アンドロスがその任命書の条項に従い、メリーランド植民地総督評議会からの要請に応じ、1693年9月にメリーランドに行って事態を整え、1694年5月に再訪して植民地議会を主宰した。これらの任務についてアンドロスには500ポンドが支払われた。その後新たにメリーランド植民地総督に指名されたニコルソンが7月に到着したとき、植民地の金庫が空っぽであることが分かったので、短気にアンドロスにその給与を返還するよう要求した。アンドロスがそれを拒否し、ニコルソンは貿易省に訴え出た。貿易省は1696年10月に、アンドロスが300ポンドを返還せねばならないと裁定した。 ニコルソンはイングランド国教会の信徒として聖公会に関わり、メリーランド植民地政府でのローマ・カトリック教会の影響を減らそうとし、植民地の首都をカトリックの強いセントメアリーズシティから、南部のポトマック川沿いにあるセントメアリーズ郡、当時「アンアランデルズタウン」(短期間プロビデンスとも呼ばれた)と呼ばれていた場所に移した。その場所は後に女王となるアン王女にちなみ「アナポリス」と改名された。ニコルソンがその場所を選んで区画割りを行い。うまく設計された公共空間(ステートサークルあるいはチャーチサークルと呼ばれた)に、聖公会教会(後に米国聖公会)と、州政府庁を置き、対角線上に道路を配置して町の様々な部分を繋いだ。これは1世紀後にピエール・シャルル・ランファン(1754年-1825年)が作成した国の首都、すなわちワシントンD.C.とコロンビア地区の「連邦都市」の先駆けになった。建築史家のマーク・チャイルドはアナポリスに加えて、ニコルソンが後にバージニアに居る間に区画割りを決めたウィリアムズバーグの町を、イギリス帝国の中でも最良に設計された町に加えた。 ニコルソンは公共教育の支持者であり、そのための法の成立に動き、「キングウィリアムの学校」の建設資金を手当てした。これは今日あるセントジョンズ・カレッジの前身であり、人文科学、一般教養に定評があり、「古典的教育」と「名著」を強調している。大西洋岸中部から北の植民地で、海賊の問題をどう扱うか、ウィリアム・ペンとの論争に巻き込まれた。メリーランドでは、植民地人が商品や硬貨を植民地にもたらす海賊に対して寛容である慣習に対し、ニコルソンが厳しく対処していた。ペンの政府も同様に海賊に寛容であることに気付いており(ペンシルベニアで海賊を認める代わりに賄賂を受け取っていると言われていた)、ニコルソンは、ペンシルベニアに向かう船をメリーランドの海域で停船させて捜索し、ヨーロッパの完成品を運んでいるならば、関税を徴収するよう命じた。これについてペンが貿易省に抗議し、ニコルソンがその戦術を加減したときに、論争は下火になった。ニコルソンがメリーランドを統治した間、植民地人がイングランド人の権利を持つことを特に否定し、「もし私がメリーランドの利益を妨げていないのであれば、またそれを治めているのであれば、彼らを統治することはできなかったことであろう」と記していた。 ニコルソンのアンドロスとの確執が続いている中で、ウィリアム・アンド・メアリー大学の設立者ジェイムズ・ブレアという強力な同盟者を得た。この2人はイングランドでアンドロスに対抗する聖公会の支持を獲得でき、貿易省に長い苦情の書を送りつけた。この動きは、アンドロスに辞任の許可を求めさせることとなり、1698年12月、ニコルソンがバージニア植民地総督の職に任命されることとなった。アンドロスは怒りながら自分の記録をニコルソンに渡すことを拒んだ。ニコルソンの総督としての任期は1705年まで続いたが、強力なバージニアの家系の小さな集団が支配する評議会にほとんど振り回されて過ごした。アンドロスの政治はバージニアで不人気だったので、ニコルソンの得ていた指示は彼らの同意なしに行動する余裕をほとんど与えなかった。ある時点では、評議会のことを「マナーを理解しない単なる野獣達」とニコルソンが表現していた。植民地の首都をジェームズタウンからミドルプランテーションに移し、ウィリアムズバーグと改名することなど、力のバランスを変える試みが多く行われたが、失敗した。評議会には反対されていたが、議会は概してニコルソンを支持したので、ロンドンの政府からは好意的に見られ続けた。 ニコルソンがメリーランドの総督である間に、ミシシッピ川からのフランスの行動が目についてきた。1695年に貿易省に対して、フランスは探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールの設計を完成させるために動いており、川を支配し、内陸のインディアンとの関係で優位となり、それが「イングランドの植民地にとっては致命的な結果になるかもしれない」と警告していた。1698年の報告書でもその警告を繰り返し、貿易省はあらゆる植民地総督にアパラチア山脈を越えてインディアンとの交易開発を奨励する指示を出すことを提案していた。「私は恐れている」と書き出し、「フランス人がこちらの国に対して、ウィリアム王戦争で可能だったよりも多くの損失を与えられるだろう」と続けていた。この観測はフランスの拡張がイングランドに課す脅威に関してなされた最初期のものであり、その提案の幾つかは結局政策として採用されることになった。ニューヨーク植民地総督のベロモント伯やサウスカロライナ植民地総督のジョセフ・ブレイクなど、他の植民地総督にフロンティアでの交易拡大の考えを積極的に広めた。 イングランドで起きた政治的危機と、1702年にアンが王位に就いたことに続いて、トーリーの内閣ができ、ニコルソンのホイッグ党パトロンを脇に押しやることになった。ニコルソンはその地位の保全のために最善を図ったが、1705年に呼び戻され、エドワード・ノットが後任になった。ニコルソンはロンドンに戻り、イギリス海外福音伝道会で活動し、北アメリカの科学的観察について王立協会の会員に受け入れられた。貿易省のコンサルタントとしても活動し、植民地の問題について意識を持ち続けた。
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