バージニアとメリーランドとは? わかりやすく解説

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バージニアとメリーランド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:59 UTC 版)

フランシス・ニコルソン」の記事における「バージニアとメリーランド」の解説

ニコルソン1692年までハワード・オブ・エッフィンガム卿の下でバージニア植民地副総督務めたウィリアム・アンド・メアリー大学創設推進者となり、初代理事一人指名された。植民地民兵隊の改善動き植民地貿易港増やすことを認めた。港について植民地大商人の間で競争増やすものと見なす者もいたが、彼等から大した反対無く進んだこの期間に、ニコルソン植民地における王室支配の高いレベル代表者1人だった。北部植民地では王室支配排除されており、南部の他の植民地領主総督治めていた。ニコルソンは、共通の社会秩序作り上げ防衛強調させるために、領主植民地王室領転換することを含めできるだけ早く全ての植民地王室支配確立するよう、国王推奨した。 エッフィンガム卿は1692年2月総督辞職しニコルソンアンドロスの間で次の総督職を巡る争い始まったアンドロスロンドンにあって上級人物であり、その地位与えられニコルソン大い悩ませることになった。このことが2人の間に成長していた嫌悪感を深まらせることになった当時の批評家の1人は、ニコルソンが「特にエドマンド・アンドロス卿に不満を抱いており、それ以前にあったことに特別憤慨したことがあった」と記していた。ニコルソンメリーランド副総督になることで宥められ、その時からアンドロス排除のために動いていた。アンドロス1692年9月到着すると、ニコルソンは彼を愛想よく出迎えその後ロンドン向かったニコルソンは、メリーランド植民地総督のライオネル・コプリー卿が死んだ1693年に、まだイングランド居たアンドロスがその任命書の条項従いメリーランド植民地総督評議会からの要請応じ1693年9月メリーランド行って事態整え1694年5月再訪して植民地議会主宰した。これらの任務についてアンドロスには500ポンド支払われた。その後新たにメリーランド植民地総督指名されニコルソン7月到着したとき、植民地金庫空っぽであることが分かったので、短気にアンドロスにその給与返還するよう要求したアンドロスがそれを拒否しニコルソン貿易省に訴え出た貿易省は1696年10月に、アンドロス300ポンド返還せねばならない裁定したニコルソンイングランド国教会信徒として聖公会関わりメリーランド植民地政府でのローマ・カトリック教会影響減らそうとし、植民地首都カトリックの強いセントメアリーズシティから、南部ポトマック川沿いにあるセントメアリーズ郡、当時「アンアランデルズタウン」(短期間プロビデンスとも呼ばれた)と呼ばれていた場所に移したその場所は後に女王となるアン王女にちなみ「アナポリス」と改名された。ニコルソンその場所を選んで区画割り行い。うまく設計され公共空間(ステートサークルあるいはチャーチサークルと呼ばれた)に、聖公会教会(後に米国聖公会)と、州政府庁を置き、対角線上に道路配置して町の様々な部分繋いだ。これは1世紀後にピエール・シャルル・ランファン1754年-1825年)が作成した国の首都、すなわちワシントンD.C.コロンビア地区の「連邦都市」の先駆けになった建築史家のマーク・チャイルドはアナポリス加えてニコルソンが後にバージニアに居る間に区画割り決めたウィリアムズバーグの町を、イギリス帝国中でも最良設計された町に加えたニコルソン公共教育支持者であり、そのための法の成立動き、「キングウィリアムの学校」の建設資金手当てした。これは今日あるセントジョンズ・カレッジ前身であり、人文科学一般教養定評があり、「古典的教育」と「名著」を強調している。大西洋岸中部から北の植民地で、海賊問題をどう扱うか、ウィリアム・ペンとの論争巻き込まれた。メリーランドでは、植民地人が商品硬貨植民地もたらす海賊に対して寛容である慣習対しニコルソン厳しく対処していた。ペン政府同様に海賊寛容であることに気付いており(ペンシルベニア海賊認め代わりに賄賂受け取っていると言われていた)、ニコルソンは、ペンシルベニアに向かう船をメリーランド海域停船させて捜索しヨーロッパ完成品運んでいるならば、関税徴収するよう命じた。これについてペン貿易省に抗議しニコルソンがその戦術加減したときに、論争下火になったニコルソンメリーランド統治した間、植民地人がイングランド人権利を持つことを特に否定し、「もし私がメリーランド利益妨げていないのであれば、またそれを治めているのであれば、彼らを統治することはできなかったことであろう」と記していた。 ニコルソンアンドロスとの確執続いている中で、ウィリアム・アンド・メアリー大学設立者ジェイムズ・ブレアという強力な同盟者得た。この2人イングランドアンドロス対抗する聖公会支持獲得でき、貿易省に長い苦情の書を送りつけた。この動きは、アンドロス辞任許可求めさせることとなり、1698年12月ニコルソンバージニア植民地総督の職に任命されることとなったアンドロス怒りながら自分記録ニコルソンに渡すことを拒んだニコルソン総督として任期1705年まで続いたが、強力なバージニア家系小さな集団支配する評議会にほとんど振り回され過ごしたアンドロス政治バージニア不人気だったので、ニコルソン得ていた指示は彼らの同意なしに行動する余裕をほとんど与えなかった。ある時点では、評議会のことを「マナー理解しない単なる野獣達」とニコルソン表現していた。植民地首都ジェームズタウンからミドルプランテーションに移しウィリアムズバーグ改名することなど、力のバランス変える試み多く行われたが、失敗した評議会には反対されていたが、議会概してニコルソン支持したので、ロンドン政府からは好意的に見られ続けたニコルソンメリーランド総督である間に、ミシシッピ川からのフランスの行動が目についてきた。1695年貿易に対してフランス探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール設計完成させるために動いており、川を支配し内陸インディアンとの関係で優位となり、それが「イングランド植民地にとっては致命的な結果になるかもしれない」と警告していた。1698年報告書でもその警告繰り返し貿易省はあらゆる植民地総督アパラチア山脈越えてインディアンとの交易開発奨励する指示を出すことを提案していた。「私は恐れている」と書き出し、「フランス人がこちらの国に対してウィリアム王戦争可能だったよりも多く損失与えられるだろう」と続けていた。この観測フランス拡張イングランド課す脅威に関してなされた最初期のものであり、その提案幾つか結局政策として採用されることになったニューヨーク植民地総督のベロモント伯やサウスカロライナ植民地総督のジョセフ・ブレイクなど、他の植民地総督フロンティアでの交易拡大考え積極的に広めたイングランド起きた政治的危機と、1702年アン王位就いたことに続いてトーリー内閣ができ、ニコルソンホイッグ党パトロンを脇に押しやることになったニコルソンはその地位保全のために最善図ったが、1705年呼び戻され、エドワード・ノットが後任になったニコルソンロンドン戻りイギリス海外福音伝道会活動し北アメリカ科学的観察について王立協会会員受け入れられた。貿易省のコンサルタントとしても活動し植民地問題について意識持ち続けた

※この「バージニアとメリーランド」の解説は、「フランシス・ニコルソン」の解説の一部です。
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