バージニアからの分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:31 UTC 版)
「ケンタッキー州の歴史」の記事における「バージニアからの分離」の解説
ケンタッキー郡の住人がバージニアから離れたいと考えた理由は幾つかあった。第1に、州都への旅は長く危険なものであった。第2に、先住民族に対して地元の民兵を攻撃的に使う場合はバージニア知事の承認を必要とした。最後に、バージニアはケンタッキーの経済においてミシシッピ川に沿った交易の重要性を認識しなかった。ミシシッピ川河口を支配しているスペイン領ニューオーリンズ植民地との交易は禁じられていた。 ケンタッキー郡の人口が増加するにつれてこれらの問題が大きくなり、ベンジャミン・ローガン大佐は1784年にダンビルで憲法制定会議を招集した。それからの6年間に、この会議は9回開催された。そのうちの一つで、ジェイムズ・ウィルキンソン将軍はバージニア州およびアメリカ合衆国から脱退し、スペイン領の一区分になることを提案したが、この考えは否決された。最終的に1792年6月1日、アメリカ合衆国議会はケンタッキー憲法を承認し、ケンタッキーが合衆国15番目の州になることを認めた。
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