バージニアへのアーノルドの派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 19:40 UTC 版)
「ブランフォードの戦い」の記事における「バージニアへのアーノルドの派遣」の解説
バージニアでグリーンの注意を引き付けその資源を分散させるためにコーンウォリスが陽動行動を要請したことに応えて、クリントンは1780年12月にベネディクト・アーノルド准将に1,600名の部隊を付けてバージニアに派遣した。アーノルドはその前の9月にイギリス軍に寝返ったばかりだった。アーノルドの受けた指示はバージニア内の大陸軍補給基地を破壊し、ポーツマスでその後に展開する作戦のための基地を構築することだった。バージニアは1780年以前にはほとんど抗争の舞台になっていなかった。1781年1月4日、アーノルド隊はジェームズ川を遡り、チャールズシティ郡ウェストオーバーで上陸した。徹夜の強行軍で急速に移動し、翌日には州都リッチモンドを襲撃した。さらに翌日も襲撃させた後に船に戻ってポーツマスに向かい、そこの防御をかためる工事に着手した。ポーツマスへの陸路はピーター・ミューレンバーグ准将が指揮するバージニア民兵隊が守っていたが、その民兵隊は戦闘経験に乏しくまた小勢力であり、イギリス軍が地域の航行可能な川を船で移動した場合にはその動きを止められなかった。 アーノルド隊がバージニアに到着したことで、ワシントン将軍は陸軍と海軍を動員してこれに対抗させることにした。2月にはラファイエットに大陸軍の部隊を付けてバージニアに派遣し、ロードアイランドのニューポートにいるフランス海軍のデトーシュ提督にはラファイエットを支援する援軍と共に海軍を派遣してくれるよう求めた。1月下旬に起こった嵐のためにニューポートを監視していたイギリス海軍の艦船が損傷したので、デトーシュ提督は1隻の戦列艦と2隻のフリゲート艦をニューポート港から出港させ、ラファイエット隊も南部に向かった。これらの部隊がポーツマスに近づくと、アーノルドは自軍の軽量で喫水の浅い船舶をエリザベス川に遡らせたので、喫水の深いフランス艦船は追従することができなかった。フランス艦隊はニューポートに戻ったが、この動きにワシントンから再度の要請があったこともあって、デトーシュ提督は3月8日に全艦隊すなわち7隻の戦列艦と、最近捕獲したフリゲート艦1隻に、1,200名の陸軍を乗せてニューポート港を出港することになった。クリントンとマリオット・アーバスノット提督はその2日後にフランス艦隊の出港を知って、即座に支援のための資源を動員した。アーバスノットはその日に8隻の戦列艦を率いて出港し、3月16日のヘンリー岬の海戦でデトーシュ艦隊がチェサピーク湾に入ることを阻止できた。アーバスノット艦隊はウィリアム・フィリップス将軍の指揮する2,000名の陸軍を乗せた輸送船を連れてきていた。フィリップスとその部隊は3月26日にポーツマスに上陸し、フィリップスがアーノルドより上官だったので、全軍の指揮を執った。
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