フランス艦隊の出港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:37 UTC 版)
「フランスのアイルランド遠征」の記事における「フランス艦隊の出港」の解説
遠征軍の指揮官の頼りなさにもかかわらず、艦隊はブレストを、予定通り1796年の12月15日に出港した。総裁政府がすべての遠征の中止の通達をよこしたのは、その一日後だった。ド・ガレは、イギリスによるブレスト監視を知っていた。イギリス軍のフリゲート艦は、ブレスト封鎖中のイギリス艦隊の、近海戦隊の一部として常に姿を見せていた。艦隊が侵攻目的であることを隠すため、ド・ガレはまずブルターニュのカマレ湾(英語版)に投錨し、艦隊にラ・ド・サン(英語版)を通るように命令を出した。この地域は岩と砂州が散らばり、悪天候のときには大きな波しぶきが押し寄せる、狭くて危険な海峡であったが、フランス艦隊の大きさ、武力装備、そしてどこに艦隊が向かっているかを、沖合の30隻から成る、諜報活動中のイギリス艦隊に知られずに航行することができた。 フランス側の報告はさておき、12月15日の夜、イギリス主力艦隊は、ブレストからは遠ざかっていた。艦隊の大部分は、冬の嵐を避けるために英仏海峡の港のひとつに避難しており、一方で、少将ジョン・コルポイズの戦隊が、ビスケー湾の岩の多いフランス側の海岸に流される危険を避けるため、大西洋へ40海里(74キロ)の退却を余儀なくされた。ブレストからは、エドワード・ペリューの座乗艦インディファティガブルと、その指揮下のアマゾン(英語版)[要リンク修正]、フィービー(英語版)、レヴォリューショネール(英語版)、そしてラガー(英語版)船デューク・オブ・ヨークから構成されたフリゲート戦隊が見えるだけだった。ペリューは12月11日に、フランスが侵攻準備を行っていることに気づき、すぐさまフィービーをコルポイズの艦にやって警告し、アマゾンをファルマスに送って海軍本部に警戒態勢を取らせた。その後もペリューは他の艦と共にブレスト沖にとどまり、フランス軍の中心となる艦隊を12月15日の15時30分に発見した。彼は自分の戦隊をカマレ湾の海岸方向にやって、フランス艦隊の大きさと目的を確認した。12月16日の15時30分、フランス艦隊はカマレ湾を出港した。ペリューはフランス艦隊に接近して様子を観察し、レヴォリューショネールを派遣して、コルポイズによる捜索の支援をさせた。 モラール・ド・ガレは、12月16日の大半をラ・ド・サンの通過に費やした。英仏海峡には一時的に置かれた灯台船が、通過中に危険な目に合わないよう警告し、また、信号弾の使用を指示していた。このためフランス艦隊の通過は非常に遅れ、準備が終わるまでに日が暮れ始めていたため、ド・ガレは16時ごろに艦隊に信号を出し、自分の旗艦であるフリゲート艦フラテルニテ(英語版)の先導で、艦隊に、港からの主だった経路をたどって航海するように指示を出した。この時にはすでにかなり暗く、多くの艦に先導艦がわかりにくかったため、フラテルニテとコルベット艦アタラント(英語版)は、自分たちの居場所を知らせるために、信号弾を使うことにした。しかしこの信号弾は混乱を招き、ラ・ド・サンへ向けて航海していた艦は、先導艦を見失った。そこへペリューが、この混乱をさらに大きくする目的で、敵艦隊の前方に青く輝く灯火と信号弾を押し込んだため、フランス艦隊の艦長たちは、ますます自分たちの居場所が分からなくなった。 12月17日の夜明け、フランス艦隊の大部分は、散り散りになってブレストへ向かった。無傷の艦隊で最も大きなものは、フランソワ・ジョゼフ・ブーヴェ中将の艦隊で、ラ・ド・サンを9隻の戦列艦、6隻のフリゲート艦と1隻の輸送艦で切り抜けていた。将軍オッシュを乗せたフラテルニテを含め、他の艦は孤立しているか、小さな集団になっているかで、艦長たちは、他の指揮官の命令が来ないため、どこに向かうかを見つけるように、内々の命令を公にせざるを得なかった。また、フランスは74門の戦列艦セディザン(英語版)を失った。夜間にグランステヴナンの岩に衝突して沈没し、680人の犠牲者が出た。この艦は他の艦の注意を引くべく、あまりにも多くの信号弾を撃って号砲を鳴らしたため、艦隊内の混乱の度合いをより一層強めただけだった。ペリューはフランスの大艦隊に損失を及ぼすことはできなかったものの、ファルマスに着くと腕木信号で海軍本部に報告を送り、物資を補充した。
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