フランス艦隊の逆襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:52 UTC 版)
「栄光の6月1日」の記事における「フランス艦隊の逆襲」の解説
モンターニュのヴィラレーは、イギリスの旗艦の接近をうまく断ち切って北に退避し、周囲の11隻の戦列艦を整列させて新しい戦列を編成した。11時30分、主な戦闘は収束に向かっており、ヴィラレーは、彼の艦隊が被った戦術的な敗北を軽減するための改修戦略に踏み切った。新しい戦隊は、損害の激しいクイーンに向かった。ヴィラレーがこの艦に与えた攻撃は、二度目の戦闘の準備が整っていなかったイギリス艦隊を呆然とさせた。しかし、ハウもヴィラレーの意図を察し、艦を集めて新たな部隊を編成した。この部隊はクイーン・シャーロット、ロイヤル・ソブリン、ヴァリアント、リヴァイアサン、バーフラーおよびサンダラーで構成されていた。ハウはクイーンの救援のためにこの戦隊を差し向け、クイーンから離れた海域でこの2つの小戦隊が交戦したが、ヴィラレーはこの戦略を取りやめ、マストが折れた数隻のフランス艦を集結させるために立ち去った。これらのフランス艦は、イギリス艦の追跡を逃れようと懸命になっていた。ヴィラレーはその後、テリブルと合流した。テリブルは散り散りになったイギリス艦隊の間をまっすぐ抜けてきた。そしてさらにマストを失ったシピオン、ミュシュース、ジェマップそしてレプブリカンを取り戻した。シピオン以下の艦は、いずれも交戦に加わっていないイギリス艦の射程内にいた。そしてヴィラレーは東に向きを変え、母国フランスに向かった これらのフランス艦何隻かは、すでに旗を降ろして降伏の意思を示していたが、それは危機を脱した時に旗を再び揚げるための準備にすぎなかった。これは当時の海戦慣習においては重大な違反であり、イギリスの海軍当局はこれを非難した。70歳であったハウは、戦闘のこの段階で甲板下に下がり、イギリス艦隊の統合は艦隊先任艦長(英語版)であるロジャー・カーティス(英語版)に委ねられた。カーティスは後日、マストを失ったフランス艦をそれ以上捕獲しなかったことについて、海軍の一部から非難され、さらにはそれ以上の追跡を思いとどまるよう積極的にハウを説得したとして訴えられた。 実際のところ、イギリス艦隊はヴィラレーのわずか11隻の艦隊を追撃することはできなかった。フランス艦と戦うことのできるのは12隻であったし、戦場にはマストを失った艦や、保護するべき拿捕艦が多かった。イギリス艦隊はそれらを回収して再編成し、また応急修理を施して、拿捕艦を確保した。捕獲艦は甚だしい損害を受けたヴァンジュール・ドゥ・プープルを含めて7隻に及んだ。ヴァンジュールは、ブランズウィックの砲撃により、船底に穴をあけられており、降伏後にイギリス艦から乗り込んだ乗員はいなかった。置き去りにされたヴァンジュールの、負傷していないわずかな乗組員は全力を尽くして艦を救おうとしていたが、一部の乗員が酒庫に乱入してへべれけになり、作業はかなり困難になった。ついには船のポンプも使用不能になり、ヴァンジュールは沈み始めた。かろうじて、そこに無傷だったアルフレッドとカローデンのボート、またカッター船ラトラーが到着し、ラトラーの指揮で、沈みゆく「ヴァンジュール」の乗組員を何人か溺死から救った。その数は全艇で500人に上り、ラトラーを指揮していたジョン・ウィン海尉はこの危険な仕事について特別に賞賛を受けた。18時15分までに「ヴァンジュール」は艦上に死者と見込みのない負傷者、そして泥酔者を残して救出を終えた。残された水兵たちは沈みゆく船首で三色旗を振り、「祖国万歳、共和国万歳("Vive la Nation, vive la République!")」と叫んだと伝えられている。 東に逃げたヴィラレーは損害を受けた艦隊のうちフランスに戻れるだけの艦を見積もり、また数隻のフリゲートを輸送船団の捜索に派遣した。また、、ウェサン島の岬を哨戒していたピエール=フランソワ・コルニク提督の8隻の戦列艦の増援も望んでいた。彼の後方である西の方では、イギリス艦隊が彼らの艦を拿捕し、褒賞を得るために夜を徹していた。そして6月2日の午前5時になってようやくイギリス本国に戻り始めた。 この戦いの犠牲者数は、特にフランス側の情報の極端な不足のために、正確に計算するのがきわめて困難である。「シピオン」を唯一の例外として、フランスの艦長によって正確な損失が記録されることはなかった。利用可能な唯一の犠牲者数の記録はサンタンドレの概略報告である。他の記録は捕獲艦に乗り込んだイギリス士官が作ったが、いずれも完全に信頼できるものではない。大部分の資料は一連の戦闘のフランスの犠牲者が約3,000名の不慮を含めておよそ7,000名であるとしている。しかし、これらは漠然としていて、詳細ではしばしば互いに食い違っている。イギリスの犠牲者数は、イギリス艦隊に残された航海日誌から確かめることができるためより簡単だが、ここにも矛盾はある。しかし、イギリスの犠牲者は合計でおおよそ1,200名とされている。
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