バージニアの対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)
「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「バージニアの対応」の解説
バージニアの総督ロバート・ディンウィディー(英語版)は、自分が苦境にあることに気付いた。ディンウィディーはオハイオカンパニーへの投資者のひとりであり、フランスがオハイオを自己の領土と主張すれば、オハイオカンパニーは資金を失いかねなかった。1753年10月、オハイオに駐留しているフランス軍に対抗するために、ディンウィディーは21歳のヴァージニア民兵隊少佐である、ジョージ・ワシントンに、フランス軍にバージニアからの立ち退きを警告するように命令した。ワシントンはわずかな兵を連れて出発し、行く道すがらで通訳としてジェイコブ・ヴァン・ブルームを、そしてヴァージニアの中隊の測量士であるクリストファー・ギストを、またタナチャリゾンに率いられた数人のミンゴ族を仲間に加えた。12月12日、ワシントンと兵士たちはル・ブッフ砦に到着した。 フランス軍は、指揮官のマリンが10月29日に亡くなっており、ジャック・レガルデュール・ド・サン=ピエール(英語版)が新たに指揮官となっていた。サン=ピエールはその夜、ワシントンを食事に招いた。食事中、ワシントンはサン=ピエールに、ディンウィディーの手紙を差し出した。それには、オハイオカントリーからの、フランスの即時撤退を要求するとしたためられていた。サン=ピエールはこれに対して、丁重にこう言った。「貴殿が私に撤退せよと言われたことに関しては、それに従う義務があるとは思わない」 サン=ピエールは、フランスがオハイオを自国領と主張するのは、イギリスよりも歴史の点でまさっているからだと説明した。それというのも、それよりほぼ100年前に、ラ・サールがオハイオを探検していたからだった。 ワシントン一行は12月16日の早朝にル・ブッフ砦を出発して、1754年の1月16日にウィリアムズバーグに戻った。報告書にワシントンはこう記している。「フランスは南部に押し入った」 そして、この地域に砦を建築して行く段階を詳細に記し、アレゲニー川とモノンガヘラ川の合流点に砦を築こうとするフランスの意図について伝えている。
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