和束茶
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和束茶 | |
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種類 | 日本茶 |
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基原 | 京都府相楽郡和束町 |
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説明 | 大部分は宇治茶として流通 |
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特徴
和束町で生産される大部分の茶は、茶問屋を通じて宇治茶として出回るため、「和束」の名は一般には広く知られていない。 しかし2014年度の和束町の茶の生産量は京都府内でもっとも多く(府内総生産量2711トン中1101トン)41%を占める[1]。 2000-2010年代には加工用抹茶の需要拡大により、[要出典]碾茶の生産量が増加しており(2004年の250トンに対し、2015年は717トン[1])、全国の生産量(2015年は2,141t)[2]の主要な産地の一つとなっている。
和束町は朝晩の気温差が激しい。また、急峻な山の間を和束川が流れ、朝霧が発生しやすい。お茶の生産に向いた気象・地形である。
2000年代後半頃からは和束町においても六次産業化の取り組みが進んだ[3]。この中で、お茶農家が生産する、各農家独自のお茶(畑の立地や品種、施肥方法、農薬の使用不使用等、農家のポリシーによって見た目も味も違う)を楽しんでもらいたいとブランド化されたのが和束茶である。
歴史
茶の栽培が始まった時期は明確ではないが、鎌倉時代以降に僧侶によって伝えられたのではないかとみられている[4]。江戸時代、元文年間に宇治の茶商人に試売したのち、農家の副産として茶園を経営するものが増え、天保年間には年千斤の茶を販売するに至ったとされる。安政六年の横浜開港以後には、さらに生産が拡大され、慶應年間には貿易茶として盛んに輸出された[5]。
明治時代には茶の産地として知られた山城地域(綴喜郡・相楽郡・久世郡・宇治郡)の中でも決して飛び抜けた品質評価は受けず「山間地域にある茶産地のひとつに過ぎなかった」と和束町のウェブサイトには記載されている[6]。明治後期には府下でトップの生産を誇る地域になったものの、依然として品質面では後塵を拝していたともされている[7]。ただし、この時期に開催された第三回内国勧業博覧会(明治23年)、第四回内国勧業博覧会(明治28年)では、和束からも入賞を果たす生産者も現れた[8][9]。その後昭和にかけて、施肥の改善、製品や畑の品評会の開催、機械製茶の導入などにより品質の改善が図られた[10][11][12]。
茶源郷 和束
和束茶を生産する和束町の別名。平成13年「和束町第三次総合計画」の6本の柱の「行ってみたい『茶源郷づくり』による地域再生」が初出。桃源郷からもじった造語。茶師が住む町、お茶を楽しめる町という意味で使用されている。
- 町の公式facebookアカウント:「茶源郷 和束」
- 和束町の観光系ホームページ:「いいとこ和束 茶源郷」
- 和束町最大の一年に一度のお祭り:「茶源郷まつり」
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- ^ a b 茶園面積と荒茶生産量・生産金額 - 京都府庁。ページ内の年度別「京都府統計書」リンク先EXCELファイルを参照。
- ^ 茶ガイド
- ^ 六次産業化と農村空間の商品化:京都府和束茶を事例に(2017年度日本地理学会春季学術大会)
- ^ 和束茶業のはじまり - 和束町ウェブサイト(和束町茶業の歴史)
- ^ 安達披早吉編『京都府茶業史』1935, p.57-59
- ^ 製茶品評会への挑戦(明治時代) - 和束町ウェブサイト(和束町茶業の歴史)
- ^ 生産量で圧倒するも、品質が及ばず(明治30年~昭和初期) - 和束町ウェブサイト(和束町茶業の歴史)
- ^ 第四回内国勧業博覧会授賞人名録(1985)
- ^ 和束町発行『和束のなりわひ』
- ^ 品質向上の取組(茶園品評会とい製茶品評会) - 和束町ウェブサイト(和束町茶業の歴史)
- ^ 品質向上には、肥料も大切(国際紛争で肥料の逼迫) - 和束町ウェブサイト(和束町茶業の歴史)
- ^ 機械製茶で和束茶業が躍進 - 和束町ウェブサイト(和束町茶業の歴史)
- ^ “1 宇治茶の郷 和束の茶畑”. 京都府. 2017年2月26日閲覧。
- ^ “和束町が「日本で最も美しい村」連合へ加盟しました”. 和束町 (2013年10月8日). 2017年2月26日閲覧。
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