ウィリアム・シェイクスピア 生涯

ウィリアム・シェイクスピア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/17 13:30 UTC 版)

生涯

本節ではウィリアム・シェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については作品の節を参照。

生い立ち

シェイクスピアの生家から車で10分ほどの距離にある、妻アンの実家

ウィリアム・シェイクスピアは1564年イングランド王国ストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリー・アーデンジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日洗礼を受けたことが記録されている。

エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったため、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行うのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠に基づいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギオス(聖ジョージ)を記念する聖ジョージの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。

シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である[10]

父はシェイクスピアの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。

シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校英語版に通ったであろうと推定されている[11]。校名に冠されているエドワード6世と学校の設立の起源に何ら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている[11]。エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行われていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである[11]

シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』("The Two Menaechmuses")との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される[12]根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である[11]

結婚後

1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイと結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている[注釈 1]ため、結婚式がそこで行われた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このとき、アンはすでに妊娠3か月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。

1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生まれ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんでつけられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行われた。

結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年(後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years)と呼ばれる[13]。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」などいくつかの伝説が残っているが、いずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である[14]

シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ランカシャーの貴族アレグザンダー・ホートンが1581年8月3日付で異母弟トーマス・ホートンに記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、弟が役者たちの面倒を見ない場合はこれらを親族サー・トマス・ヘスケスへ贈ることを書いた部分に加え、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト(William Shakeshaft)」の面倒を見てやってほしいというヘスケスへの要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである[14]。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれで、ホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している[14][15][16]。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている[17]

ランカシャー説を取る研究者(ジョン・ジョゼフ・バグリー、結城雅秀河合祥一郎など)は後にシェイクスピアと交流を深める役者たちが別の劇団に入っていたことに注目、シェイクスピアも彼等がいた劇団で役者として入ったと推測している。ホートンやヘスケスと親しい第4代ダービー伯爵ヘンリー・スタンリー英語版がヘスケスの隣人で、長男のストレンジ卿ファーディナンド・スタンリー(後の第5代ダービー伯爵)が抱える劇団『ストレンジ卿一座英語版』に前述の役者たちが所属、かつシェイクスピアの初期の作品が上演されているからであり、ホートン家を去ったシェイクスピアはヘスケスの紹介でストレンジ卿一座に入り、リチャード・バーベッジら役者たちと知り合い、戯曲を書きあげていったとされている。なお、1592年3月3日にシェイクスピアのデビュー作である『ヘンリー六世 第1部』はストレンジ卿一座がローズ座で上演している[18]

ロンドンの劇壇進出

ロンドンに復元されたグローブ座

1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』("Greene's Groatsworth of Wit")において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでに勝ち得ていたことが知られている[注釈 2]

1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座英語版として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣英語版の初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーがパトロンとなっていた。シェイクスピアの所属変更は同年の第5代ダービー伯(ストレンジ卿)急死でパトロンを失ったストレンジ卿一座がハンズドン男爵に引き取られ、宮内大臣一座として再出発したからであり、シェイクスピアは1593年に出版した物語詩『ヴィーナスとアドーニス』をダービー伯の友人だったサウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーに献呈、翌1594年にも『ルークリース凌辱』を献呈しサウサンプトン伯の信頼を獲得、新たなパトロンを手に入れた。『恋の骨折り損』もこの頃に作られたと言われ、オックスフォード海軍大臣一座英語版のパトロンである海軍卿英語版エフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワードペンブルック伯一座英語版のパトロンであるペンブルック伯ヘンリー・ハーバート英語版とサウサンプトン伯、ストレンジ卿が会った出来事を参考にした部分が多く見られる[19]

しかし、サウサンプトン伯との繋がりが災難をもたらしたこともある。1601年2月8日にサウサンプトン伯が友人の第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーと共にエリザベス1世の側近ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)らを排除するクーデターを起こし、失敗して捕らえられたエセックス伯が25日に処刑された(共に捕らえられたサウサンプトン伯は後に赦免)。エセックス伯一味はシェイクスピアら宮内大臣一座に働きかけて金を支払い、クーデター前日の2月7日にグローブ座で『リチャード二世』を上演させた。エセックス伯の意図は国王が廃位される場面を上演させ民衆を扇動させようとした所にあったが、反乱が失敗するとシェイクスピアら宮内大臣一座はこの上演とサウサンプトン伯の関係で立場が危うくなり、政府の取り調べを受けたがお咎めは無かった[20]

1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている[21]

シェイクスピア家の紋章

高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころ、シェイクスピアの父は紋章を取得するために紋章院へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが[注釈 3]、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。1596年にふたたび申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は“Non sanz droict”(フランス語で「権利なからざるべし」)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである[22]

1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色英語版』では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる[23]

シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる[24][25]

シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人を務めた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。

法的問題や商取引についての様々な公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。

晩年

引退後のシェイクスピアの終の棲家となったストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるニュー・プレイス

シェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている[26]。時のイギリスは新興国のネーデルラント連邦共和国との熾烈な貿易競争のなかで形勢が不利になっていた。

シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。

1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐ったニシンから伝染した感染症であるとされる。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。


注釈

  1. ^ 実際にはショッタリー出身。
  2. ^ グリーンはシェイクスピアを名指しで批判しているわけではないが、下線部が『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公のセリフ “O tiger's heart wrapt in a woman's hide!”(「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」)をもじって引用していることや、「舞台を揺るがす者」("Shake-scene")がいかにもシェイクスピアを連想させる名であることから、シェイクスピアに対する非難であることはほぼ間違いないとされる。一方で「成り上がりのカラス」はシェイクスピアではないと解釈する研究者もある。河合祥一郎はその著書『シェイクスピアの正体』(新潮文庫、2016年)で一章を割いて、通説のシェイクスピアとする解釈を批判し、グリーンが批判した対象は同時代の俳優エドワード・アレン英語版だと結論づけている。
  3. ^ 当時、俳優はいかがわしい職業とされていた。
  4. ^ 17世紀の詩人、劇作家。『マクベス』の改作などを執筆している。
  5. ^ シェイクスピアと同年の生まれだが早くから才能を現していた。

出典

  1. ^ 1606年3月3日生 - 1668年4月7日没。享年62。17世紀の詩人、劇作家。オックスフォードシャー州オックスフォード生まれ。シェイクスピアが名付け親となった。父親はクラウン亭という宿屋を経営していて,シェイクスピアはロンドンとストラトフォードを往復する途中でよく立ち寄っていた.そのため,彼はシェイクスピアの私生児だという噂が広まった。1628年に舞台用の戯曲を書く仕事を始め、「知恵者」(1636年)が代表作。1638年に桂冠詩人となり、後にドルリー・レーン劇場の支配人となった。1643年清教徒革命で国王側について戦った功績により、ナイト爵を授けられている。1656年になると、オリバー・クロムウェル政権下で禁じられていた演劇を再上演するのに尽力し、イギリスで初めて大衆向けオペラを上演。『マクベス』の改作などを執筆した。
  2. ^ William Shakespeare English author Encyclopædia Britannica
  3. ^ 例えば、 Fausto Cercignani, Shakespeare's Works and Elizabethan Pronunciation, Oxford, University Press (Clarendon Press), 1981. ISBN 978-0198119371.
  4. ^ シェークスピアの四つ折判のデジタルコレクションが公開
  5. ^ 横山六輔『世界的現代訓』p.149
  6. ^ 穂積陳重『法窓夜話』[1]
  7. ^ https://kotobank.jp/word/%E5%98%96%E5%98%96-509579
  8. ^ http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/854566.html
  9. ^ 早稲田大学演劇博物館 シェイクスピア没後400年記念特別展 沙翁復興 ― 逍遙からNINAGAWAまで Shakespeare Renaissance – from Shoyo to NINAGAWA早稲田大学演劇博物館(2019年4月15日閲覧)。
  10. ^ A Shakespeare Genealogy
  11. ^ a b c d Stephen Greenblatt, "Will in the World" Quebecor World, Fairfield; United States, 2004, pp. 25 - 28
  12. ^ Honan, Park. Shakespeare: A Life. Oxford: Oxford University Press, 1999, p. 43.
  13. ^ E. A. J. Honigmann, "Shakespeare: The Lost Years" Manchester University Press; 2nd edition, 1999, p. 1.
  14. ^ a b c "The Lost Years", Shakespeare Timeline.
  15. ^ David Aaron Murray, "In Search of Shakespeare", Crisis Magazine
  16. ^ バグリー、P147 - P148、結城、P36 - P37、河合、P21 - P23。
  17. ^ Michael Wood, "In Search of Shakespeare" BBC Books, 2003, ISBN 0-563-52141-4 p.80
  18. ^ バグリー、P148 - P151、結城、P37 - P40、P57 - P58、P62 - P64、河合、P23、P31 - P34。
  19. ^ バグリー、P146 - P147、結城、P111 - P122、河合、P35 - P36。
  20. ^ 結城、P194、P197 - P200、河合、P65 - P66。
  21. ^ William Allan Neilson and Ashley Horace Thorndike, "The Facts About Shakespeare", The Macmillan Company, 1913.
  22. ^ Stephen Greenblatt, "Will in the World", Quebecor World, Fairfield, United States, 2004.
  23. ^ 1598年刊の『恋の骨折り損』において、初めて著者名が明記された。それ以前の作品は著者名が記されていなかったか、もしくは1623年ファースト・フォリオ(作品集)に収録されるまで未刊のままだった。
  24. ^ e-notes.com on Shakespeare's Globe Theatre, Shakespeare at e-notes.
  25. ^ Article on Shakespeare's Globe Theater Zee News on Shakespeare, accessed Jan. 23, 2007.
  26. ^ Jonnie Patricia Mobley, William Shakespeare, "Manual for Hamlet: Access to Shakespeare", Lorenz Educational Publishers, 1996, p. 5.
  27. ^ Graham Holderness, "Cultural Shakespeare: Essays in the Shakespeare Myth" University of Hertfordshire Press, 2001, pp. 152-54.
  28. ^ Jones, Ernest (1961). The life and work of Sigmund Freud vol. 1. Basic Books. p16
  29. ^ Shapiro (2), James (26 March 2010). "Forgery on Forgery". Times Literary Supplement (5581). pp. 14–15.英語版 p185
  30. ^ Leon Harold Craig, Of Philosophers and Kings: Political Philosophy in Shakespeare's "Macbeth" and "King Lear" University of Toronto Press, 2003, p. 3.
  31. ^ G. K. Hunter, "English Drama 1586-1642: The Age of Shakespeare". Oxford: Clarendon Press, 1997, 494-496.
  32. ^ Plutarch's Parallel Lives
  33. ^ Richard Dutton, Jean Howard ed., "A Companion to Shakespeare's Works: The Histories", Blackwell Publishing, 2003, p. 147.)
  34. ^ Brian Robert Morris, "Christopher Marlowe". 1968, pp. 65-94. ハロルド・ブロークスのエッセイにおいて、マーロウの『エドワード二世』がシェイクスピアの『リチャード三世』に影響を与えたと述べている。しかしゲイリー・テイラーは"William Shakespeare: A Textual Companion" p. 116.において、2人の文体が類似しているように見えるのはありふれた決まり文句ばかりであると反論している。
  35. ^ Patrick Murphy, "The Tempest: Critical Essays", Routledge, 2001.
  36. ^ Richard Dutton, "The Birth of the Author," in Cedric Brown and Arthur Marotti, eds, "Texts and Cultural Change in Early Modern England" (London: Macmillan, 1997): p. 161.
  37. ^ Fredson Bowers, "On Editing Shakespeare and the Elizabethan Dramatists". Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1955, p.8-10.
  38. ^ Alfred W. Pollard, "Shakespeare Quartos and Folios". London: Metheun, 1909, xi.
  39. ^ Gary Taylor and Michael Warren, "The Division of the Kingdoms". Oxford: Clarendon Press. 1983.
  40. ^ a b c 【シェイクスピアをたどって】(7)全部訳す 全部やる『朝日新聞』夕刊2018年1月15日(2面)。
  41. ^ 『シェイクスピアの正体』(新潮文庫、2016年)p264-282。
  42. ^ 『小田島雄志のシェイクスピア遊学』(白水uブックス、1991年)p26-28、p35-36。
  43. ^ シェークスピア17作品は共著、ビッグデータで判明 AFPBB 2016-10-25
  44. ^ 東京新聞2021年4月8日
  45. ^ 日本における『ロミオとジュリエット』 佐野昭子、『帝京大学文学部紀要― 米英言語文化』第37号、平成18年度






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウィリアム・シェイクスピア」の関連用語

ウィリアム・シェイクスピアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウィリアム・シェイクスピアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウィリアム・シェイクスピア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS