210型系(1957年 - 1959年)
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「ダットサン・110/210」の記事における「210型系(1957年 - 1959年)」の解説
1957年(昭和32年)10月、110型系に改良を加え、新開発となるOHV 988cc 34馬力のC型エンジンを搭載した210型、「ダットサン1000乗用車」が登場する。これは同年7月に登場したトヨペット・コロナ(ST10系)がサイドバルブ方式ながら987ccのエンジンを持っており、小型タクシー料金の排気量上限も1000ccまでに拡大されたことを受けての改良であった。 当初、日産ではダットサン用新型1000ccエンジンとして、ボアxストロークとも68.0mmのスクエアレイアウトのOHVエンジン開発を進めていたが、当時、日産に招聘されて技術指導を行っていたウィリス・オーバーランド社出身のアメリカ人エンジニア、ドナルド・ストーンはこれを却下し、代わりに日産でライセンス生産されていたオースチンA50ケンブリッジのBMC・Bシリーズエンジン(日産社内型式は1H型)のストロークを縮めて小排気量エンジンを速成するよう、強く推奨した。 C型エンジンはこの結果産まれたもので、日産社内では発案者にちなんで当時「ストーン・エンジン」と呼ばれた。68 mmスクエアエンジンに比べサイズが若干増大して重量は28 kg増、ボアxストロークは73.0 mmx59.0 mmと、当時の日本製エンジンとしては異例とも言える極端なショートストローク・オーバースクエアの高回転型エンジンとなったが、ストーンは「近年のアメリカ車でもこのくらいのオーバースクエア型エンジンが増えている」「既に実績のあるオースチンエンジンをベースに短期間、低コストで開発でき、リスクも少ない。製造ラインやパーツの多くも共用でき、大いに有利」として、不安(と新開発エンジンを却下された不満)を抱く日産技術陣を説き伏せた。日産オースチンエンジンのシリンダーブロックはイギリス本国の流儀に倣い、当時最新のトランスファーマシンを活用して効率よく自動化生産されており、そのショートストローク版なら簡易な変更で生産設備を活用できた。 燃焼室の設計に工夫を要したものの、ストーンの説いたとおりに短期間、低コストで完成したC型エンジンは、こうして210型ダットサンに搭載された。低速域でやや薄くなったトルクは、フライホイール質量や、トランスミッションとファイナルギアのギア比の適正化で補われた。当時としては高い30馬力超の出力と俊敏な回転上昇のおかげで、弱点である燃費の悪さも市場からはさほど問題にされず、結果的には成功であった。ただしこの強靭な脚まわりとパンチの効いたエンジン特性は、神風タクシーを大量に生む要因ともなった。 1958年(昭和33年)は特筆すべき年となる。まず1月には210型がトラックの220型と共にロサンゼルスオートショーに出品され、6月には日産の乗用車としては初となる対米輸出が始まり、以後の本格的な北米進出の端緒となる。 もう一つのトピックは、9月に開催されたオーストラリア・モービルガス・トライアルへの挑戦である。オーストラリア大陸一周16,000 kmを19日間で走破するこの過酷なラリーへのエントリーは、当時宣伝課長であった片山豊の発案で決められ、チーム監督となった難波靖治のもと、Aクラスに出走した富士号、桜号の2台はそれぞれ完走し、クラス優勝(総合24位)、クラス4位を獲得し、大きな注目を浴びた。出走65台中完走37台というこのラリーでの好成績は輸出にも追い風となった。 しかし一面として、当時のダットサンの部品(パーツ)には、戦前からのアメリカ車やライセンス生産していたイギリス製オースチンの影響によるインチ規格と、日本の公的規格であるメートル規格が1車種に混在していた。この問題が自力修理が必須な長距離耐久ラリーで露呈、日産チームは小さなダットサンにそれぞれの規格の工具を大量に積み込んで走る羽目になり(他のチームからは「部品屋か」と揶揄されたという)、現地調達した工具やねじのサイズが合わないため修理完了までに時間がかかるといったトラブルにも始終悩まされたため、帰国した難波は、この不満を経営陣・技術陣に忌憚なくぶちまけた。これにより、その後の日産車ではメートル規格への部品統一が急がれることになった。 当時の日本車とアメリカ車や欧州車の性能と品質には非常に大きな隔たりがあり、同時期に北米進出を果たしたトヨペット・クラウンRS型は、フリーウェイを走ればオーバーヒートを起こし、操縦安定性も危険なレベルとの烙印を押され、輸出を一時見合わせる事態に追い込まれていた。一方ダットサンは、フリーウェイを走行中にエンジンフードのロックが外れ、風圧で開いてドライバーの視界を遮る事故を起こすなど、トヨペットの「Toy」とならび「Tin toy」(ブリキのオモチャ)と揶揄されながらも、オースチン譲りの快活で信頼性の高いエンジンと、本来日本での悪路や過積載を考慮した頑強なフレームや脚まわりが功を奏し、次第にアメリカに受け入れられて行く。 同年のマイナーチェンジでフロントグリルの意匠が後の初代ブルーバードを思わせるものに変更され、リアウインドウが拡大された211型となり、翌1959年(昭和34年)7月のブルーバード発表と共に販売を終了した。 フロントサスペンションは最後まで固定軸のままであったが、110、210型系は小型タクシー用の営業車として、設計的にはより進んでいたトヨペット・コロナや日野ルノーを販売成績で圧倒し、日産自動車の乗用車トップメーカーとしての地位(1960年代前半まで)を磐石なものとした。 1959年(昭和34年)に登場したフェアレディの前身となる繊維強化プラスチック(FRP)製ボディのオープンカー、ダットサン・スポーツ1000(S211型)もこの211型シャシ形状がベースである。
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