遺産と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:09 UTC 版)
「ラルフ・タウンゼント」の記事における「遺産と評価」の解説
歴史家たちは、タウンゼントが第二次世界大戦前に親日的な見解を表明していたことに注目している。例えば、ジャスタス・ドエネケはタウンゼントを「アメリカで日本の政策を擁護する声の中で最も頑固で極端なもの」と評している。ジュディス・パパクリストゥは、「反帝国主義者の中で、孤立主義者のラルフ・タウンゼントほど極端な者はいなかった」と述べているが、タウンゼント自身は生前、「孤立主義者」というレッテルを拒否し、代わりに「現実主義者」「平和主義者」と名乗っていた。 タウンゼントは今でもアメリカの極右の多くのメンバーから尊敬されており、最近では日本でも尊敬されている。彼の死後、未亡人ジャネットは彼の書類をオクラホマの大富豪で、右翼市民軍やキリスト教アイデンティティー集団の支持者でもあるラリー・ハンフリーズに引き渡した。彼はタウンゼントを「FDRが日本を煽ってアメリカを攻撃させようとしたことを知っていて、FDRが彼を投獄させた」人物として言及している。ハンフリーズはタウンゼントの書類をいわゆる「ヘリテージ・ライブラリー」に保管したが、現在ではその多くがタウンゼントの旧友ウィリス・カートが率いる反ユダヤ主義団体バーンズ・レビューにより保管されている。1997年、バーンズ・レビューは第二次世界大戦後初めて『暗黒大陸中国の真実』を再出版したが、その際にカートが新たな序文を書き、タウンゼントを「深遠で、純粋に勇気があり、過度に正直な作家」と称賛した。2004年には、バーンズ・レビュー版『暗黒大陸中国の真実』の邦訳版が日本で発売され、大ヒットとなり、タウンゼントは瞬く間に日本の極右の間で「英雄」の地位まで上げた。 彼の著述の質については、最近の学者の間で意見が分かれている。『オーバーランド・マンスリー・アンド・アウト・ウエスト・マガジン』の中国に関する記事を分析したリミン・チューは、彼の主張の一部を「信じられないほど騙されやすいか、意図的に悪質なもの」とみなし、歴史家のユスタス・ドエネッケは彼のパンフレットを「粗雑に書かれている」と評している。対照的に、武蔵野大学のピーター・オコーノ教授は、同じパンフレットを「よく論じられていて、研究されている」と評価した。
※この「遺産と評価」の解説は、「ラルフ・タウンゼント」の解説の一部です。
「遺産と評価」を含む「ラルフ・タウンゼント」の記事については、「ラルフ・タウンゼント」の概要を参照ください。
遺産と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:29 UTC 版)
「トマス・ハッチンソン」の記事における「遺産と評価」の解説
ハッチンソンはイギリスの支配に対して反対する動きの最重要点で中心に居たために、アメリカにおける評判は概して全く悪いものだった。マサチューセッツ生まれの者達や自由を求めた側からは裏切り者と見られることが多かった。ジョン・アダムズの評価は特に厳しく、「強欲だ」と言い、その目的を達するために高飛車に操作した「おべっか使い」だと表現していた。イギリスの政治家からも批判された。トマス・パウナルはハッチンソンの追放後も意見の一致が見られないままであり、フランシス・バーナードは、ハッチンソンのために働いたにも拘わらず、ハッチンソンの行動の幾つかを認めず、ノース卿は、ハッチンソンの手紙を出版させたことが戦争の勃発に繋がったと考えていた。 しかし、20世紀の伝記作者たちはその評判の回復に努めており、ハッチンソンがこれまで如何にまた何故悪者扱いされたかを説明しようとした。近年の歴史家達はハッチンソンを、ロンドンの支配者とマサチューセッツの人民の間で引き裂かれた悲劇的人物として扱うのが通常になって来た。例えばバーバラ・タッチマンは、ハッチンソンを「不運」で「悲劇的な人物」として描いている。イギリスの学者デイビッド・ケネス・フィールドハウスは、ハッチンソンが2つのイデオロギー、すなわち彼自身の古風で静的なものと、同時代のものの動的なものとの衝突の犠牲者であるので、その悲劇が生まれたと言っている。アメリカの著名な歴史家カール・L・ベッカーは、「ニューイングランドが国王の善意を生かすことで田舎気質から解放されることを示すほど、ハッチンソンを喜ばせたものは無かっただろう。そのアメリカ全体と特にボストンに関する苛立ちは、高い場所で信頼を得られなかった愛されてはいるがわがままな子供のいる誇り高き所有欲の強い父の苛立ちである」と記した。ベイリンは長い間に自分の解釈を変えてきた。1970年代はハッチンソンを混乱した実用主義者だと見ていた。2004年までに、啓蒙思想がアダム・スミスやトマス・ペインのような思想家のお蔭で形を取った時代に、古い考え方で封鎖された近代以前の思索家としてハッチンソンを描いた。 ミルトンにあったハッチンソンの田舎家の名残が保存されている。その主たるものはハッチンソン総督のフィールドと呼ばれる土地であり、「保存の信託者」が所有しており、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。一般公開されている。近くにある資産は1771年にハッチンソンのために建設された隠れ垣である。この隠れ垣は国家歴史登録財に指定され、双方を合わせてミルトンヒル歴史地区の一部になっている。ハッチンソン家にちなむ目印があったボストン市は、ハッチンソンが去ったときにそれを改名してしまった。
※この「遺産と評価」の解説は、「トマス・ハッチンソン」の解説の一部です。
「遺産と評価」を含む「トマス・ハッチンソン」の記事については、「トマス・ハッチンソン」の概要を参照ください。
遺産と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:47 UTC 版)
「ジョセフ・グリマルディ」の記事における「遺産と評価」の解説
グリマルディの死後、出版者のリチャード・ベントレーがチャールズ・ディケンズを呼び、トマス・イーガートン・ウィルクスが不器用に書いたグリマルディの伝記を書き直すよう求めた。その伝記は本人のメモに基づいていた。ディケンズは子供時代の1820年に、ロチェスターのスター劇場でグリマルディの演技を見ていた。ディケンズが驚いたことに、『ジョセフ・グリマルディの備忘録』は売れ行きが良かった。 グリマルディは「当時のイギリスでも最も人気のあるエンタテナーに容易に」なった。その名声は主にパントマイムにおける道化を多く演じて成功したことで確立された。その道化は当時のイギリスでの生活の多くの面を風刺し、流行における愚かさを茶化した。グリマルディは直ぐにロンドンでは最も有名な道化になり、次第に道化の性格をへまをする田舎っぺからハーレクインで最も重要な配役に変え、さらにはハーレクインをも凌いだ。道化の役割を、ライバルの求婚者から家庭の料理人や子守りまで、幅広い喜劇的役作りを含むように拡大した。グリマルディの人気は夜の娯楽のバランスを変化させたので、初めに比較的真面目なパントマイムの一部が直ぐに「ハーレクインものの配役に変身していく役柄を決定づける序文を超えたもの」に落ちていった。ハーレクインものでは圧倒的な存在だったので、後の道化は「ジョーイ」と呼ばれ、この言葉がそのメーキャップとともに、他のタイプの道化にも普及していくようになった。 『ベントレーの雑録』に寄稿したある者が1846年に「彼を見たことが無かった者には、言葉を並べても無意味である。見たことのある者には、彼に感謝するにも褒め言葉が出てこない。それ故に頭を振って『あー! グリマルディを見るべきだった』と言うことになる。」と記していた。イギリスの劇作家ジェイムズ・プランシェは、グリマルディの死で1つのジャンルが終わりになることを心配し、「パントマイムの最良の日が逃げていく。グリマルディ、バーンズ、ボローニャが死んだ!」と記した。ヴィクトリア&アルバート博物館と俳優のサイモン・キャロウはどちらも、他の道化はグリマルディの名声レベルに達していないと結論づけている。1955年にグリマルディの伝記を著したリチャード・ファインドレイターは、「ここに道化のジョーイがいる。その名前を踏襲した1万人のジョーイの初めの者だ。ここにイギリスの笑いの天才が居り、彼が君臨したサドラーズ・ウェルズとコベントガーデンの舞台の華麗な休日を飾った。...(グリマルディは)その人生で概してイギリスの演劇界では最も面白く、最も愛された男だと言われている」とコメントした。後の伝記作者アンドリュー・マコーネル・ストットは、「ジョーイは喜劇の役柄として最初の偉大な実験であり、道化の強調するところをトリックやへまから性格付け、風刺および全的な人格にまで転換することで、そのユーモアがまず始まり強い一体感から最前面に立つ後の喜劇役者全ての精神的父として、自ら確立した。」と記した。 今日でも、ハックニー・ロンドン特別区にあるホリー・トリニティ教会で、毎年2月の第1日曜日にグリマルディの記念行事が開催され、その記憶が留められている。この行事は1940年代から開催されており、世界中の道化役者数百人が道化の衣装に身を包んで出席している。
※この「遺産と評価」の解説は、「ジョセフ・グリマルディ」の解説の一部です。
「遺産と評価」を含む「ジョセフ・グリマルディ」の記事については、「ジョセフ・グリマルディ」の概要を参照ください。
- 遺産と評価のページへのリンク