起源と著作権に関する論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 07:56 UTC 版)
「エニアグラム」の記事における「起源と著作権に関する論争」の解説
エニアグラム性格論を始めたイチャソは、グルジエフの考え方やシンボルを取り入れていたが、グルジエフ財団からの著作権に関する訴訟を避けたかったと考えられている。イチャソはエニアグラム性格論をアリカ学院の秘密の教えにしておきたいと考えていたといわれ、ナランホら教え子たちに秘密保持契約を結ばせていたが、彼らはそれを守らず、好きに教えたり執筆したりするようになったが、イチャソからの著作権の追求は避けたかった。ナランホも弟子に秘密保持契約を結ばせ、イチャソやナランホの孫弟子たちも秘密保持契約を結んだが、彼らもそれを守らなかった。エニアグラム性格論の起源は、著作権の追求を避けたいという事情の影響があり、また、エニアグラム理論家たちには、起源がスーフィーであると推測や想像を重ねたり、思い込みなのか意図的なのかは不明だが、他者から情報を引用する際に内容を改変したり、情報を偏って取捨選択したり、推測が確定に変えられるなどの問題がみられる。人によって主張が異なり、一人の人間の中でも時によって言うことが異なっている場合がある。 エニアグラムとその起源は、1916年に西洋に紹介したグルジエフだと考える学者が多い。吉福伸逸は、イチャソと関係のないグルジェフィアンの小グループに、イチャソのものと大体同じ構造のエニアグラムを用いた人間のタイポロジー(タイプ論)があったと述べており、前田樹子はグルジェフィアンの小グループのメンバーがエニアグラムの人格論を含む本を出版しており、これをイチャソが読んだ可能性を指摘している。また、グルジエフ協会と提携していたヘレン・パーマーは、ナランホに学んだ時にはすでに自分はグルジエフのエニアグラムに精通していたと語っており、イチャソが9つのポイントに人格のタイプを正しく配置したことで、タイプ間の関係がインタビューを通じて確認できるようになったと評価しつつ、イチャソのエニアグラム図は「グルジエフとほぼ同義である」としている。 グルジエフは自身の教えの入手元について、「私はそれを盗んできたのであろう」と答え、「古代の科学」と呼んだことから、ほのめかされた古代の起源を探そうとする人もいる。 1960年代中期から、カウンターカルチャーでは、意識改革への道の可能性の一つとして、チベット仏教やヨーガ、禅、サイケデリックドラック(幻覚物質)と共に、イドリス・シャー(英語版)の著作のヒットからネオ・スーフィズムが流行し、今でいうスピリチュアル系の人々を中心に関心を集めていたという時代背景もあり、前田樹子は、イチャソ自身も1960年代中期から70年代中期にスーフィズムに強い関心を寄せていたことを指摘している。 こうした事情から、起源に関して様々な主張がある。エニアグラムの9つのポイントを持つ図形と、古代のスーフィズム(イスラム神秘主義)で使われていたシンボルとの間に類似性があると考える人もいる。スーフィー起源説の出どころはイチャソのようで、彼は元々空白期間にアフガニスタンでスーフィーに直接学んだと述べており、ナランホはイチャソから、グルジエフが接触したというスーフィーの集団であるサルムング教団と接触したとほのめかされたという(ナランホ、1970年)が、後にイチャソは、自身の教えはスーフィズムまたはグルジエフの教えからの派生ではないと否定した(イチャソ、1991年)。また、エニアグラム理論家のP・H・オリアリーらも、イチャソの経歴に関する情報をスーフィズムを強調する形で曲解している。ナランホはイチャソからスーフィーに学んだと聞いたと述べているが、イチャソがエニアグラムについて知っているスーフィーに一度も会ったことがないと否定したとも述べている。吉福伸逸は、グルジエフのエニアグラムの根底はスーフィだと述べており(出典でその理由や証拠は示していない)、「7の法則」と「3の法則」を中心とするグルジエフのエニアグラムのアイデアがどこから来たのか様々に言われるが、現時点ではその大部分が憶測と伝聞にすぎないことが知られている。また、東方正教会の秘教的伝統を研究したボリス・ムラヴィエフ(英語版)は、グルジエフの教えの出どころは秘教的キリスト教(英語版)に秘伝される体系の断片と考え、グルジエフに質問し肯定的な回答を得たと回想しており、エニアグラムはキリスト教から盗まれた教えだと考える人もいる。 鈴木秀子は、エニアグラムは約2000年前にアフガニスタン地方で体系が築かれたといわれ、イスラム社会全域に浸透し、特に神秘主義的な一宗派であるスーフィー派で重視され、特に社会のリーダーの育成マニュアルとして発展したもので、イスラム社会を中心に2000年の実証的検証を得ていると主張している。約2000年前に生まれイスラム周辺の王家に口伝されてきた帝王学などと主張する講師もいるが、根拠はない。 古代のギリシャの神秘的な数学の伝統は、プラトン、彼の弟子であるプロティノス、そしてその後の新プラトン主義者たちに受け継がれたが、エニアグラムというシステムのキーである小数点とゼロの両方は、ヨーロッパでは14世紀頃まで数学者は使用していないため、小数を用いるエニアグラムが古代に存在したことはあり得ない。イチャソとナランホではない古代の起源を見つけようとした後続の人々は、歴史の中からエニアグラムに似たものを探し、証拠なしに古代の起源を推測した。4世紀のキリスト教の教父でピタゴラス数論を使用して九芒星のシンボルを説明したポントスのエウァグリオス、13世紀のシーア派の神学者ナスィールッディーン・トゥースィー、13世紀のフランシスコ会の神学者・神秘家で、イスラム教徒やユダヤ教徒を改宗させるためのツールとして、9つの悪徳と9つの美徳を表す9つの点を持つ円を用いたラモン・リュイなどが、エニアグラムと関連があるとされたり、起源ではないかといわれることがあるが、当時小数の概念は存在しないため、彼らがエニアグラムの理論を考え出した可能性はない。グルジエフのエニアグラムの理論では小数は重要な概念であった。 イチャソは、この108のエニアグラムについて「私は誰かからエニアグラムをもらったわけではない」としており、また、『トランスパーソナル・コミュニティへの手紙(Letter to the Transpersonal Community)』(1991年)の中で、「私はこの伝統の起源の所有者であるだけでなく、108の九芒星と全ての用語を含むシステム全体は、絶対的かつ具体的に証明できるように、私だけが開発したものであり、私はそれを公に表明する用意がある。」 と書いており、発明者であることとその所有権と強く主張している。イチャソは、エニアグラムは自らの元にやってきたビジョンであり、彼だけのものだと言っているが、この主張は多くの矛盾をはらんでいる。 エニアグラムが広まると、その所有権と、誰が誰からどんなインスピレーションを得たかという原点に関して論争が起きた。グルジエフ研究所は、イチャソがエニアグラムをグルジエフから盗用したと主張しており、イチャソはグルジエフのいくつかのアイデア、特にエニアグラムのシンボル(ここでは「エネゴン」と呼ばれる)を、アリカ学院の人気の心理訓練、自分のシステムに取り入れているが、説明の際にそれを認めていないと指摘している。ブランドン・メディーナは、イチャソがスーフィーやグルジエフからインスピレーションを得たと発言しながら、後にそれを否定し、オリジナルを主張していることを考えると、妥当な主張と告発であると述べている。イチャソは、サルムング教団(英語版)とスーフィーの教えから来たものだと述べたり、盗用であることを否定したり、アリカ学園の教えは様々なソースがあると述べ、一方伝統の混在を否定し、自分の方法は全く新しいと主張するなど、矛盾する発言をした。彼の完全オリジナルの主張は、グルジエフ研究所による盗用の告発を回避するためではないかという見解もある。 ナランホによりイチャソの初期の教えと実践が世に広まり、「エニアグラム戦争」と呼ばれるような状況になり、アリカ学院は自身の所有する概念と技術の著作権により敏感になった。ナランホの弟子たちは、起源はイチャソとナランホだと認めたり、起源は古代であると主張したりと、意見はばらばらだった。彼らに続いて出版された本では、イチャソ、アリカ学院、ナランホを創始者から除外する傾向がみられ、起源の情報は不明瞭になっていった。古代から20世紀まで続いた口伝だったと主張する人もいたが、教師たちが自らの著作権を主張することと、口伝という形態は両立しない。起源や権利についての合意がないことで、誰もが「オリジナルの仕事」であると主張できる状況になった。
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