衝撃の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 11:16 UTC 版)
ドラマ『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた1978年(昭和53年)12月28日の午前中、南青山のマンションに住む田宮夫人から連絡を受けた田宮の付き人は、体調を崩した田宮夫人の母親を病院に連れて行きその後港区元麻布の田宮邸に戻ってから、そのことを田宮に報告した。生前の田宮の最期の言葉は、昼近くに付き人が聞いた「お腹が空いた」と言う言葉だった。付き人は田宮のために赤坂の洋食店で弁当を買って帰った。そして1階のキッチンでお茶を入れ、弁当と梅干しを載せたお盆を持って2階に上がり、寝室の前で声を掛けたが応答がなかった。しばらくしてドアを開けると田宮はベッドの上に仰向けで横たわり、米国パックマイヤー社製の上下2連式クレー射撃用散弾銃で自殺を遂げていた。43歳だった。 付き人が発見した時、田宮は苦悶の表情を浮かべほとんど息もしておらず、股関節のあたりまで掛け布団が掛かっていて布団の下から銃口がのぞいていた。「部屋は血の海になっていた」という報道もあったが実際はそこまで血は流れておらず、田宮の体の左側に血が散っているという感じだったと言う。付き人は慌てて119番通報を、そして六本木にあった田宮企画の事務所に電話をした。寝室の隣室の書籍から遺書も見つかり警察は自殺と断定。田宮の死亡が確認されたのは13時50分頃で、マスコミには14時過ぎに田宮猟銃自殺の一報が入った。奇遇にもこの日は14時から日本テレビ(関東ローカル)で田宮が出演した映画『花と龍・第一部』(1973年公開、松竹)が放送されていたため、この映画の放送中に田宮自殺のニュース速報が流れることとなった。また、関西地区で14時から放送していた『スタジオ2時』(毎日放送制作、一部TBS系列局にもネット)では、鴨沂高校の同級生である落語家・初代森乃福郎の口から直接田宮の猟銃自殺が速報として伝えられたが、福郎はその場で悔しさのあまり原稿を叩きつけて号泣した。 その夜に仮通夜をすませ、翌29日の午前中に遺体の検視、その夜に通夜、そして30日に密葬が行われた。密葬後に行われた会見では、田宮夫人は約100名の報道陣を前に「田宮は哲学的な死を遂げたのだと思います」と語った。年明けの1979年(昭和54年)1月12日に告別式を行った。 散弾銃の引き金を足の指で引いたとされているが、その当時、付き人いわく田宮の手元には銃はなかったはずだと言う。田宮は「銃は妻に取り上げられてどこにあるか分からない」といったことをもらしていて、自宅に置いてあった銃のケースに中身が入っている形跡もなかったと言う。葬儀数日後に形見分けがあり、付き人が田宮邸に手伝いに行った時、クローゼットの中から散弾が入った箱が見つかった。葬儀後しばらくして田宮夫人から付き人宛ての遺書だという物が手渡された。ごく普通の便箋に書いてあり、日付も田宮のサインもなく本人の筆跡かどうかも分からないが、《僕のセーターで気に入ったものがあったら、持っていって使ってください》と書かれていたという。 残された遺書は妻・息子達・二児の家庭教師・2人の弁護士・田宮企画顧問・奈良岡朋子・鬼沢慶一宛の8通あったとされている。そのうち妻へ宛てた遺書には、感謝の言葉や子どもたちを頼みますの言葉と共に、生きることの苦しみと死への恐怖が綴られ、「病で倒れたと思って(中略)諦めて欲しい」、「四十三才まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上の倖せはないと自分で思う」 と書かれていた。次男の田宮五郎へは当時から俳優を志していた彼に「俳優になるなら人間を知ってから」との言葉を生前に遺していた。 この田宮の自殺は、大きな衝撃をもって報道された。田宮も映画化された際に出演した小説『華麗なる一族』(山崎豊子原作)において万俵鉄平が猟銃自殺をする場面があり、山崎は田宮の死を電話で知るとすぐに「猟銃でしょう」と悟ったという。 この報道渦中での放映となったドラマ『白い巨塔』残り2話は皮肉にもさらなる注目を浴びることとなり、視聴率は上昇して最終話は31.4%を記録。結果多くの人々の記憶に残り、視聴率的にも大成功を収めることとなった。 マスコミの報道の中、弔問には同じ大映専属の俳優だった宇津井健と藤巻潤、勝新太郎・中村玉緒夫妻、藤村志保、松坂慶子、若尾文子、三條美紀らに加え、ドラマ『白い巨塔』で共演した山本學・加藤嘉・小沢栄太郎・中村伸郎・清水章吾・島田陽子・金子信雄・渡辺文雄・児玉清・北村和夫・北林谷栄・夏樹陽子など、多くの有名人が駆けつけた。葬儀委員長は曽我廼家明蝶が務め、明蝶と勝の2人が弔辞を読み上げた。また、ドラマ『白い巨塔』で花森ケイ子を演じて田宮と共演した太地喜和子は田宮の遺影に向かって「あんた、ばかねえ」と言い自殺を嘆き、勝はマスコミに対し「さぞ背伸びして、どれほど苦しんだか」と田宮の胸の内を代弁した。 戒名は「清光院法誉顕映究吾居士」。墓地の所在は柴田家代々の菩提寺である、故郷・京都の法然院にある。 田宮は自殺の10カ月前に生命保険に加入したが、加入から1年以内の死亡は保険金支払いの対象外であったため、本来なら支払われないはずの保険金が躁鬱病による自殺と判断され、特例で3億円が遺族に支払われた。この一件は物議を醸すことになり、国会でも議題に取り上げられるほどの騒ぎとなった。 自殺場所となった田宮の自宅は後に解体され、跡地は妻がオーナー経営する外国人向け賃貸住宅になった。
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