第二次世界大戦と日本語との出会い
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「ドナルド・キーン」の記事における「第二次世界大戦と日本語との出会い」の解説
1940年(昭和15年)のある日、ナチス・ドイツのフランス侵攻など、欧州情勢に鬱屈とした日々を過ごしていたキーンは、タイムズスクエアでゾッキ本として売られていたアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』を手にとった。本の厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントでこれを購入したキーンは、やがてその世界に魅せられるようになる。 その後も反日感情を持つ李への遠慮から日本語は学ばなかったが、ジョージ・H・カーの誘いを受けて、ポール・ブルーム(後:CIA初代東京支局長)とともに有志による日本語勉強合宿に参加。サクラ読本を教材にして日系アメリカ人の猪俣からレクチャーを受けた。合宿を終えたあとも、最初に愛着を覚えたフランス文学にうちこむか中国語と日本語の研究を続けるかキーンには迷いがあったが、フランス出身のブルームから「フランスで育って完璧なフランス語を話すアメリカ人は山ほどいる、しかし日本語がわかるアメリカ人は皆無に近い」と説得された。大学では、カーの勧めにより角田柳作の日本思想史を受講し、日本研究の道に入る。 真珠湾攻撃から間もない1942年はじめ、カリフォルニア大学バークレー校に設けられた海軍語学校に志願し、西海岸に渡る。語学校には、語学に長けた一流大学の学生や日本または中国に駐在していた宣教師や実業家の子弟らが集められ、日本語教育のカリキュラムでは長沼直兄の『標準日本語讀本』が用いられ言語の習得のみに専念できる環境が整えられており、日本で教育を受けて帰米した日系アメリカ人らが教師を務めた。同年6月、虫垂炎を患い、海軍病院に入院中に火野葦平の『土と兵隊』を読む。これが初めてキーンが読んだ日本文学作品となった。同年、コロンビア大学にて学士号を取得し卒業。 翌年1943年(昭和18年)2月にキーンらのグループは軍務に急を要するとして語学校を繰り上げ卒業となり、キーンは卒業生総代として在学中にマスターした日本語で「告別の辞」を述べた。 その後キーンは海軍情報士官としてハワイの翻訳局に赴任し、日課の報告書や物資の明細書などのガダルカナル島の戦いで得られた日本軍の文書を英語に訳す任務を負った。中には死亡した兵士から押収された日記もあり、くずし字を習得したキーンは好んで翻訳した。最期の思いが赤裸々に綴られた手書きの文書を通じてキーンは日本人の心に接した。通訳官として尋問した最初の捕虜は、のちに作家となった豊田穣。 その後オーテス・ケーリ(後:同志社大学名誉教授)とともにアッツ島の戦いに参加する部隊に同行。初めての実戦経験となる。アッツ島では激しい抵抗を見せながらも最後には集団自決で果ててしまう日本兵たちに、キーンは困惑する。続いてコテージ作戦にも参加し、キスカ島上陸部隊の一員に加えられる。実際にはキスカ島撤退作戦により日本軍はすでに島を去っていたが、キーンのもとに持ち込まれた"標識"は大騒動をもたらし、大量の血清を求める緊急電が本国に向けて打たれた。その看板には『ペスト患者収容所』と日本語で書かれていたのである。キーンがこれが日本軍の軍医によるいたずらだったと知ったのはそれからかなり時間が経ってからのことであった。 1945年(昭和20年)には、沖縄攻略作戦に従軍。沖縄本島へ向かう途上、乗艦していた輸送船が神風特別攻撃隊の標的となるが、特攻機は突入直前に別の船のマストに接触して水中に墜落し、命拾いした。上陸初日に接触した現地住民とは意思疎通ができず、沖縄にいるうちの多くが日本語話者でないことを知った。その日の遅く、日本語を上手に話す少年が見つかり、彼を通訳にしてガマに潜む住民に投降を呼び掛けた。陸軍の第96歩兵師団が語学将校を求めていることを知るとこれに志願。主に普天間に駐留して捕虜の尋問を担当し、前線ではスピーカーで投降を呼びかけたが、勝ち目がない中で日本兵や民間防衛隊が自爆攻撃を行い、女性や子どもが自殺する姿を目の当たりにした。沖縄での軍務は7月まで続き、終戦の玉音放送はグアムの収容所で日本人捕虜とともに聞いた。 日本のポツダム宣言受諾後、キーンは日本に赴任することを望んだが、折り合いが悪い上官によってこの願いは聞き届けられず、第6海兵師団として中国に派遣されることとなった。赴任先の青島では当初現地の日本軍人と良好な関係を築いたが、まもなく混乱に乗じた腐敗や密告が入り乱れるようになり、戦争犯罪の取り調べなどに嫌気が差したキーンは帰国願いを出し、原隊復帰の命令書を得てこの地を後にした。 帰路、厚木飛行場を経由したキーンは、初めて訪れた日本を見て回りたい衝動を抑えられず、原隊の現在地を横須賀と「誤って」報告。横須賀の司令部に出頭し、自分が「誤解」していたと申告するまで、1週間にわたり滞在し戦後間もない日本を堪能した。
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