第二次世界大戦と終戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 05:07 UTC 版)
「スロベニア人」の記事における「第二次世界大戦と終戦後」の解説
ユーゴスラビア王国は1941年4月6日、クーデターによって事実上枢軸国への参加を否定する政権が誕生すると、枢軸国によって侵略された。ユーゴスラビアの国土はドイツ、イタリア、ハンガリーなどに分割され、スロベニア人の住む地域のうちシュタイエルスカ地方はウンターシュタイアーマルク(Untersteiermark)としてドイツ国に編入された。1941年11月初頭には、ブレージツェ地域に住む4万6千人のスロベニア人が、ドイツ化あるいは強制労働のためにドイツ東部に強制移送された。 強制移送されたスロベニア人はザクセン地方にある複数の収容所に送られ、ドイツの農地や工場で1941年から1945年まで強制労働させられた。収容者は常に公的な強制収容所に収容されていたわけではなく、労務を行う場所の近辺にある空き家に寝泊りさせられることもあった。終戦が近づくにつれ、これらの収容所は連合国の軍隊によって解放され、戦争で荒れ果てたユーゴスラビアの故郷へと帰還した。 1945年、ユーゴスラビアは自力で国土を解放し、共産主義国家として再建された。スロベニアは連邦を構成する社会主義共和国となった。 ケルンテン地方の大部分はオーストリア領のままであり、4万2千人のスロベニア人が少数民族として認められ、1955年のオーストリア国家条約(Austrian State Treaty)に基づく民族的権利を享受している。しかし、同国のシュタイアーマルク州に居住しているスロベニア人(4250人) は少数民族とは認められず、その権利を受けていない。1955年の国家条約で定められた諸権利はいまだ完全には履行されていない。一部の人々の間には、ナチス勢力に対するスロベニア人のパルチザンの活動を否定的に捉える考え方もあり、「ティトーのパルチザン」という語が侮蔑的に用いられることは珍しくない。ケルンテンの人々の多くは、ユーゴスラビアの勢力が第一次、第二次の世界大戦でオーストリア領に侵入したことを指摘し、スロベニアをオーストリアの領土に対する脅威とみなしている。ケルンテン州の知事であったイェルク・ハイダーは、その人気が低下し始めるとスロベニア人問題を取り上げるようになり、その権力の基盤として反スロベニア人主義を利用するようになった。また、一部のドイツ語話者らは、スロベニア人少数民族の存在を完全に否定し、この地域のスラヴ語話者はスロベニア人とは異なるヴィンディッシェ(Windische)という集団であると主張する。 ユーゴスラビアは第二次世界大戦後、イタリアから一部の領土を獲得したが、それでもなお10万人程度のスロベニア人がイタリア領内、特にトリエステ(トルスト)やゴリツィア(ゴリツァ)に残っている。 1991年、スロベニアは十日間戦争の後にユーゴスラビア連邦から独立し、スロベニア共和国となった。
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