第二次世界大戦と総辞職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/09 13:23 UTC 版)
「アイモ・カヤンデル」の記事における「第二次世界大戦と総辞職」の解説
1939年3月、ヘルシンキでソ・フィン交渉が始まり、ソ連は、フィンランド湾内のスールサーリ、ラヴァンサーリ、大・小チュテルサーリ島のソ連への租借または割譲、代償として東カレリアの係争地の一部をフィンランドに割譲することを提案した。しかし、フィンランド政府はこれに応ぜず、1939年4月にフィンランド側の発議により交渉は打ち切りとなった。1939年5月、カヤンデルは、フィンランドは国際連盟が侵略国に科す制裁の履行から解放されると表明し、ドイツの侵略があった場合、大国の保証を拒否するとイギリスに通告した。7月20日、ドイツの侵略があった場合、ソ連との協力を拒否し、いずれの国の軍事行動も侵略とみなすとソ連に通告した。 第二次世界大戦勃発後、1939年9月3日、カヤンデル政権はフィンランドの中立を表明した。同年10月、再びソ・フィン交渉が行われたが、11月には交渉は決裂した。10月6日、カレリア地峡への部隊集結を決定し、同日、政府に非常大権を賦与する共和国防衛法を採択した。11月30日、ソ連軍が侵攻して冬戦争が始まった日、連立を構成する社会民主党党首のヴァイノ・タンネルから退陣を求められ、12月1日、カヤンデル政権は総辞職し、リスト・リュティが後継首相となった。 政治家である一方、カヤンデルは森林学者でもあり、ミュンヘン大学で森林学を学び、1911年から1934年の間、ヘルシンキ大学で森林学の教授を務めた。 1943年1月21日、63歳で死去。
※この「第二次世界大戦と総辞職」の解説は、「アイモ・カヤンデル」の解説の一部です。
「第二次世界大戦と総辞職」を含む「アイモ・カヤンデル」の記事については、「アイモ・カヤンデル」の概要を参照ください。
- 第二次世界大戦と総辞職のページへのリンク