第二次世界大戦における8.8 cm砲
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「8.8 cm FlaK 18/36/37」の記事における「第二次世界大戦における8.8 cm砲」の解説
長い射程と正確な照準で優秀な性能を有した8.8cm砲は、第二次世界大戦開始以降、ヨーロッパにおける東西戦線および北アフリカ戦線で使用された。スペイン内戦での活躍と同様に、さまざまな任務に使用できる多用途砲として絶大な威力を発揮した。 1940年のフランス侵攻時、ドイツ陸軍はイギリス軍のマチルダII歩兵戦車やフランス軍のルノーB1といった重装甲の戦車に苦戦した。第7装甲師団(de)がアラスでこれら連合軍戦車の反撃をうけた際、師団長ロンメル将軍が8.8cm FlaK 18で編成された空軍野戦高射砲部隊(一説には陸軍の10.5cm野砲隊)に命じ、敵戦車を撃退している。 大戦初期における敵地上戦力との撃ち合いの結果、銃弾や砲弾の断片により砲員に死傷者が出ることが判明、専用の大型装甲防盾(厚さ正面10mm、側面 6mm)を追加することが命じられた。これは固定陣地に据えられ対空任務専門で使われる砲には見られないが、野戦で使われる8.8cm高射砲では多くの場合装備されるようになった。 後にアフリカ軍団は、1941年5月の英軍の「ブレヴィテイ作戦」を迎え撃ち、ハルファヤ峠をめぐる戦いでは8.8cm Flak 18がマチルダII歩兵戦車を数十輌撃破している。これは、砂漠特有の陽炎のため、遠くで砲身だけを出して構えている敵砲が見えづらいのと同時に、当時のイギリス戦車の搭載砲が対戦車用の徹甲弾しか撃てず、軟目標に対して効果のある榴弾が撃てなかったのも原因だった。また、「バトルアクス作戦」においても、一個中隊の8.8cm砲により90輌近い英軍戦車が失われ、以後も全戦域にわたって対戦車戦闘に大活躍している。1942年から陸軍による運用が本格化し、主に装甲師団や自動車化歩兵師団に属する「陸軍高射砲大隊(Heeres-Flakartillerie-Abteilung)」に配備された。 この他、空軍野戦高射砲部隊に対し陸軍や武装SSの将校が対戦車戦闘を要求し、結果、かなりの戦果を挙げて戦線崩壊の危機を救ったケースがいくつか記録されている。 1944年7月、フランスのカニーにおいて、陸軍第125機甲擲弾兵連隊長ハンス・フォン・ルック(en)少佐は、8.8cm砲4門を率いるドイツ空軍の大尉に対し、拳銃で「死ぬか勲章をもらうかどっちかだ」と脅し、結果イギリス軍のシャーマン戦車4輌と装甲車輌14輌を撃破させている(その後、この部隊は味方の戦車部隊を敵軍と誤認し、ティーガー重戦車2両を誤射して撃破した)。 1945年5月のベルリン市街戦では、ベルリン動物園に設置された88ミリ高射砲(ベルリン動物園の高射砲塔には128mm連装高射砲が配備されていた)の正確な水平射撃がソビエト赤軍の進撃を妨げ、多数のT-34中戦車を撃破している。 独特な発射音から、連合軍は、eighty-eightと呼んで恐れ、ドイツ軍将兵はその音を聞くと「Acht-Acht(アハト・アハト)だ!」と沸いたという。 本来の「高射砲」としても威力絶大で、連合軍パイロットには4連装2cm対空機関砲(2cm Flakvierling38)と共に恐怖の対象となった。 このように8.8cm砲は非常に有用で大きな戦果を挙げたが、根本的には高射砲として設計されたもののため、対地用途に水平弾道で直接射撃を行う砲としては、水平状態での閉鎖機(砲弾装填部)が高い位置にあるために素早い装填にやや難があることや、移動には大型牽引車両を必要とすること、また運用に要する人員を多く必要とする、といった難点もあった。高射砲として大仰角を得るための背の高い砲架は、対戦車砲としてのみ考えた場合には目立つために発見されやすい、という指摘もなされた。これらの指摘は後述の発展型の開発に活かされている。
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