第二次世界大戦におけるフランス侵攻作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:49 UTC 版)
「シュリーフェン・プラン」の記事における「第二次世界大戦におけるフランス侵攻作戦」の解説
独ソ不可侵条約の締結によって当初はソ連との二正面作戦を強いられる危険が無かった第二次世界大戦においても、マジノ線の建設によってフランス領内への直接侵攻が困難となったこともあり、ドイツのフランス侵攻作戦は原則としてシュリーフェン・プランが踏襲される予定だった。しかし作戦計画書を持った士官の飛行機がベルギー領内に不時着するという事故(メヘレン事件)によって作戦計画が連合国側に漏れてしまい、作戦の練り直しが迫られることになった。 検討の結果、ヒトラーの後押しでマンシュタインの作戦計画(マンシュタイン・プラン)が採用された。それは「主力はベルギーから攻め込み、イギリス海峡に達する」という点ではシュリーフェン・プランを踏襲したものであったが、攻勢正面はベルギー北部の平野部ではなく、南部からルクセンブルクにかけてのアルデンヌ森林地帯である点が異なっていた。戦車や重砲などの重装備の迅速大量な通過は不可能と考えられていた森林地帯を抜ければ連合軍に対して完全に奇襲となり、より容易に作戦が進むと考えられたのである。その後のフランス侵攻では実際の戦局はその通りに展開し、フランスは約6週間でドイツに降伏した。
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