第二次世界大戦における従軍と戦死
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「エルマー・ギデオン」の記事における「第二次世界大戦における従軍と戦死」の解説
1941年1月、徴兵によりギデオンは陸軍に所属した。当初はケンタッキー州のトーマス基地に配属されたが、3月18日にリレー基地に転属になった。 10月22日にはパイロット課程への参加が認められ、陸軍航空軍に転属となった。そしてアリゾナ州のウィリアムズ航空基地で訓練を受ける。1942年5月にパイロット資格を取得し少尉となる。その後、フロリダ州タンパのマックディル航空基地で双発爆撃機の操縦訓練を受けたが、普段の業務はデスクワーク中心であった。 同年8月9日、ギデオンが航空士として乗っていたB-25爆撃機がノースカロライナ州ローリーの市営空港から離陸する際に沼地に墜落した。彼は火傷と肋骨3本の骨折という重傷を負いながらも炎上する機体から這い出し、同乗していたジョン・R・ラーラット伍長を救出した。ラーラット伍長はこの事故で背骨と足の骨2本を骨折する重傷を負い、残りの2名は命を失った。ギデオンも皮膚移植が必要なほどの火傷と骨折のため3ヶ月間入院をし、体重が約50ポンド(22.7キログラム)も減少した。その後ラーラット伍長救出の功績によってソルジャーズメダルを受勲し、中尉に昇進した。 海外派兵前最後の休暇においてギデオンは「戦争が終わったら野球界へ戻る。」と話していた。この時の会話について彼の従兄弟が証言し、「最後に彼と会ったとき、彼は『僕は一度事故にあった。もうこれ以上不幸は起こらないだろうから、今後のフライトは大丈夫だろう。』と言った。」と述べた。1943年2月にはAP通信がギデオンを取り上げ、「ギデオンは戦争が長続きしなければ野球に復帰」という見出しを掲げた。 1943年6月、ギデオンはB-26の飛行訓練用に設けられた第394爆撃群第586爆撃飛行大隊の所属となり、オクラホマ州アードモア空軍基地において戦闘訓練を受けた。翌年2月にはこの飛行隊が第9軍所属となりイギリスのボーハム空軍基地へ派遣され、ギデオンはヨーロッパ上空での飛行任務に就いた。5月23日には初任務が与えられ、フランスのボーモン=ル=ロジェにある飛行場を爆撃した。 1944年4月20日の午後、ギデオンが操縦するB-26は僚機35機と共にボーハム空軍基地を出発した。彼らには、パ=ド=カレー県サントメール近くの村に建設されたV1飛行爆弾発射場を攻撃するという特殊任務が与えられていた。夕暮れ時に飛行隊は高度12,000フィートから爆撃を開始。その最中に強烈な対空砲火を受け、爆撃直後だったギデオン機はコックピット下に被弾した。乗員7名のうち1名のみがパラシュートでの脱出に成功。しかし、ギデオンを含む他の6名は墜落した際に死亡した。ギデオンは当初行方不明として家族に伝えられ、家族がその死とフランスに埋葬されたのを知ったのは翌年5月になってからだった。のちに彼の遺体はアメリカへ返還され、アーリントン国立墓地に埋葬された。 第二次世界大戦時に従軍したメジャーリーガーは500名を超えるが、その中で戦死したのはギデオンの他にハリー・オニールのみであり、2人とも27歳であった。戦後、出身校であるミシガン大学では彼の名を冠した奨学金が設置され、1983年には同大学のスポーツ殿堂に陸上選手、野球選手の2部門で表彰された。
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