第二次世界大戦における「中立」
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「エイモン・デ・ヴァレラ」の記事における「第二次世界大戦における「中立」」の解説
詳細は「第二次世界大戦期アイルランドの局外中立」を参照 第二次世界大戦の勃発前から初期にかけて、ナチス・ドイツはアイルランドの動向に強い関心を示していた。たとえばアイルランドに侵攻することで、イギリスに対して軍事的優位に立てるのではないか、あるいはIRAをうまく対英戦闘に従事させることはできないか、などといったことであり、一時は実際にアイルランド政府に交渉を働きかけてもいた。ドイツはなんとかアイルランド政府の歓心を買おうと努力したが、その努力はほとんど実らなかった。デ・ヴァレラがアイルランド自由国の中立に関しては頑として譲らなかったからである。英国情報部MI5は、アイルランドの動きに注意を怠らなかった。アメリカ合衆国も当初中立を標榜していたにもかかわらず、真珠湾攻撃をきっかけに連合国側に立つことになるが、アイルランドは終戦まで中立を守り続けた。ただ、アイルランド政府内ではドイツ、あるいはイギリスがアイルランドに侵攻する可能性もあると危惧していた。 アイルランドの「中立」には裏があった。現在までの研究で、アイルランド政府が密かに連合国側に加担していたことが明らかになっている。たとえばノルマンディー上陸作戦の決行日(D-デイ)は、アイルランドから送られた大西洋の気象情報をもとに決定された。また、アイルランドに連合国側のパイロットが不時着すると、「偶然」北アイルランドに逃れることができたが、ドイツのパイロットはみな捕らえられて収容された。さらに、4万5千人ものアイルランド人義勇兵が連合国軍に加わっていたが、このことに関して政府は一切干渉しなかった(それ以前のスペイン内戦では、アイルランド人の義勇兵としての参加が政府によって禁止されていた)。アドルフ・ヒトラーの死に際してデ・ヴァレラは、ダブリンに駐在していたドイツ公使エドゥアルト・ヘンペルを公式に訪問し、弔意を述べた。このことは連合国側から非中立行為として批判されたが、デ・ヴァレラにとっては、中立を標榜しながら連合国側に加担していることをカムフラージュするために必要な行為であった。 名前だけのものであったとしても、当時のアイルランドおよびデ・ヴァレラにとって「中立」以外に選択肢はなかったといえる。もしドイツと組もうものなら、イギリス軍の即時侵攻が予測されるし、さんざん批判してきたイギリスと組もうものなら、デ・ヴァレラという人物の政治信念そのものが問われることになる。また公然と連合国側につけば、これに反発するIRAがイギリスに対して攻撃を仕掛ける可能性もあり、それもまたイギリス軍のアイルランド侵攻につながるだろう。デ・ヴァレラはこの事態を危惧し、IRAを牽制しようと、獄中にあったIRAの闘士たち数人を処刑している。 歴史家たちは、当時のアイルランドにとって中立がベストの選択肢であったということでは一致している。なぜなら、アイルランドは長大な海岸線を有していながら、それをカバーできるほどの兵力を持っていなかったからである。もしアイルランドが連合軍に加われば、連合軍はただでさえ十分でない戦力を、アイルランドの海岸線防衛のために割くことを迫られたであろうし、ドイツにとっても連合軍の弱点としてそこを狙う価値が出てくる。しかし、アイルランドが中立を標榜したため、もしドイツが無理に侵攻すれば国際社会の非難を浴び、ひいては強力なアイルランド人ロビーを持つアメリカ合衆国政府を動かすことになる。そう考えると、第二次大戦初期においてアイルランドが中立を宣言したことは、連合軍に加わる以上にドイツの侵攻を防ぐ効果があり、やがて後顧の憂いなく東岸に兵力を集中できることでイギリス軍も利することになった。 2005年には公文書館から秘密文書が開示され、1942年にMI6がアイルランド政府に対し、極秘裏に連合国側への参戦を要請し、デ・ヴァレラがこれを却下していた経緯が明らかになっている。
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