第二次世界大戦と占領下の時代
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「ハーメルン」の記事における「第二次世界大戦と占領下の時代」の解説
第二次世界大戦末期、1945年3月14日にハーメルンは連合国軍の空爆目標となった。これにより、駅やクロイツ通り、ハステンベッカー・ヴェク、シュテューフェ通りの家屋が破壊された。177人が死亡、93人が負傷、700人以上が家を失った。 1945年4月5日、アメリカ軍第2機甲師団がグロース=ベルケルに至り、小部隊がハーメルンへ進出してきたため、ドイツ軍はヴェーザー川の橋を爆破した。市内には防衛司令官クロッケンブリンク少将が指揮する約500人からなる防衛部隊がいた。アメリカ軍からの砲撃が開始されるとマルクト教会、ヴェルデミューレ、市庁舎やオスター通りなど多くの家屋が破壊された。アメリカ軍のリーランド・ホッブス少将指揮下の第17工兵大隊と第30歩兵師団の一部がオール村近郊で浮き橋を使ってテュンダーン方面へ戦車を渡河させたが、ゼンネ演習場に駐屯していたドイツ軍士官候補生達が市内南部でアメリカ軍の前進を停止させ、戦車2両を撃破した。4月6日、アメリカ軍第30歩兵師団のレイモンド・O・ボードイン中尉がドイツ軍の機関銃陣地を攻略する際に戦死したが、その功績により名誉勲章を受章した。4月7日、テュンダーン方面からイギリス軍第117連隊が進出して市内を占領、残っていたドイツ軍は降伏した。 1945年6月4日、軍事政府はヴァルター・ハルム (SPD) をハーメルン市の上級市長に指名した。彼は1933年以前に副市長として公職を務めていたのだが、ナチスによって追放されていた人物であった。1945年12月1日からゲオルク・ヴィルケが市主事の職に就いた。 ハーメルン刑務所には、1933年以降主に共産主義者や社会民主主義者といったいわゆる政治犯(およびホモセクシャルやユダヤ人)が収監されていた。後にはフランスやデンマークの政治犯もこれに加えられた。劣悪な環境と非人道的な虐待行為により約300人が死亡した。1945年4月には連合国軍の接近に伴って刑務所の一部が撤収したため、多くの政治犯が死の行進によって亡くなった。 同地を占領したイギリス軍は、1945年12月3日から1949年まで刑務所をナチス戦犯の刑場として利用した。ベルゲン=ベルゼン裁判の被告人を含む156人が戦争犯罪により有罪とされて処刑された。中には収容所長のヨーゼフ・クラーマー、副所長のフランツ・ヘスラー、収容所付医師のフリッツ・クライン、女性看守のイルマ・グレーゼ、そのほか強制収容所の医師、カポ(監視役の囚人)、SS警備兵、第2SS装甲師団の将校などが含まれる。また、映画「大脱走」のモデルとなったドイツ空軍の捕虜収容所から脱走した連合国軍捕虜50人を虐殺したゲシュタポ将校も処刑された。 1946年に戦後初の市議会議員選挙が行われた。当時の市議会は30議席で、SPD 18議席、NLP (Niedersächsischen Landespartei) 9議席、CDU 2議席、FDP 1議席であった。上級市長にはハインリヒ・レフラー (SPD) が選出された。
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