第一次広島時代
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1997年は春季キャンプが終了したのち、二軍でのスタートとなる。広島東洋カープ由宇練習場での練習試合に中継ぎ投手として登板するも、1イニング10失点を喫する。当時の二軍監督である安仁屋宗八は打たれ続けても交代させずに3アウトを取るまで投げさせた。4月25日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)にて初登板・初先発・初勝利・初完投の快挙を達成。その後も同じく新人の澤崎俊和と共に先発ローテーションに入り、勝ち星こそ伸びず負けが先行したが規定投球回をクリアした。 1998年は僅か1勝でシーズンを終えた。 1999年にシドニーで行われたインターコンチネンタル杯に日本代表として出場し韓国戦で勝利、台湾戦で完封勝利を収める。同年、カープの先発ローテに名を連ねる。 2000年はそれまで力一辺倒だった投球を改め緩急を意識した投球の結果成績が向上し、9月20日の巨人戦から閉幕まで4連続完投勝利を挙げた。 2001年はオールスターゲームに初出場。初の2桁12勝を記録し、チームの勝ち頭となる。 2002年は途中先発ローテーションから外れたが、2年連続2桁勝利を達成。 2003年はそれまでのエース・佐々岡真司に代わって初の開幕投手となる。前半は不調で勝てない時期が続いたが、後半から本来の調子を取り戻し、最終的に13勝を挙げ3年連続2桁勝利を達成し、自身初となる投球回200イニング以上を果たした。アテネオリンピック野球アジア予選にも出場。 2004年も2年連続で開幕投手を務める。6月20日のヤクルトスワローズ戦(松山坊っちゃんスタジアム)にて自己最速の157km/hを記録。アテネオリンピックでは野球日本代表に選出され中継ぎとして2勝し、銅メダル獲得に貢献。 2005年4月15日の横浜ベイスターズ戦で三浦大輔と互いに完封リレーを行い0-0で引き分けた。オールスターゲームにファン投票で選出され4年ぶりの出場を果たした。シーズン通しては15勝を挙げ、下柳剛と並んで最多勝のタイトルを獲得。年俸も2億円に達した。 ちなみに、球団再編騒動の最中、当時資金面で困窮していた球団から提示された年俸は1億9500万円であったが、チームの顔として2億円の大台到達にこだわる黒田は「僕が500万円出すので(会見で)2億円と言っていいですか」と詰め寄る場面もあったという。 2006年は国別対抗戦WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に選出されるも、2月24日の12球団選抜との練習試合で打球を右手に受け負傷。出場辞退を余儀なくされる。5月31日にFA権を取得。6月まで5勝6敗、防御率、WHIP1.11と安定した投球を続け、オールスターゲーム出場直前の7月2日の中日戦からは負け無しの8連勝を記録。7月は4勝0敗、防御率0.84、WHIP0.78の活躍で月間MVPをチームメイトの栗原健太とともに受賞。更に8月も続けて4勝0敗、防御率1.11、WHIP0.86の活躍で月間MVPを連続受賞。球団史上初の2か月連続月間MVP受賞となった。この時、「広島カープの歴史に名前を残せて嬉しい」と発言した。しかし、9月には右肘を痛めて長期離脱。10月16日、シーズン最終戦となった中日戦の9回2死という場面で復帰登板、打者1人を抑えプロ初セーブを記録した(この試合で掲げられた横断幕については#人物に詳述)。シーズン成績13勝6敗1セーブ、WHIP1.00、防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得。1点台でのタイトル獲得は1992年の赤堀元之以来、セ・リーグでは1989年の斎藤雅樹以来の快挙となった。また、テンポの良い投球を評価されてスピードアップ賞を受賞。オフには監督のマーティ・ブラウンの奨めで渡米し右肘関節のクリーニング手術(数か月で投球可能となる軽い手術)を行った。FA権取得に伴い、10月15日に球団から「4年10億円+生涯保障、指導者手形」という条件を提示される。そして11月6日に4年12億円(基本年俸2億5000万円+単年最大5000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしている)でFA権を行使せずに残留することを表明。「今後も国内他球団の移籍はない」と明言し、国内なら「生涯広島」を宣言した。なおこの契約は、4年の契約期間内で自由にメジャーリーグ挑戦できるようになっていた。FA権を行使せずに残留を決めたこと、残留会見での「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープのファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」、「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった」と発言した。また、この年の選手会のベストエピソード賞に選ばれ、黒田の野球用具を担当するSSKは、社を挙げて黒田をキャンペーンすることを決定した。そして市民に感動を与えたことが評価され、広島市は「広島市民表彰」を黒田に授与すると発表した(球団4人目)。 2007年も開幕投手を務め、長谷川良平以来球団2人目の5年連続開幕投手となる。またデーゲームは大の得意で、6月3日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦では2003年7月6日からのデーゲーム13連勝を記録した。7月14日の東京ドームでの読売ジャイアンツ戦にて通算100勝を達成した(ちなみにプロ初勝利も東京ドームでの巨人戦だった)。オールスターゲームに2度目のファン投票選出で4度目の出場。例年夏場を得意としていたが、この年の8月からはクオリティ・スタートすら守れない試合が続き、8月と9月は2勝3敗、防御率4.58、WHIP1.48を喫した。10月18日にFA権を行使することを明らかにした。MLB球団は以前から黒田に目を付けており、特にテキサス・レンジャーズゼネラル・マネージャーのジョン・ダニエルズが興味を示した発言をしていた。ジョー・アーボンとスティーブ・ヒラードと代理人契約を結び、12月1日に球団本部長の鈴木清明へメジャー挑戦を決断したことを報告。記者会見では「評価されるのもカープのおかげで、また日本に帰ってプレーするならこのチームしかない」とも語った。
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