確保と逮捕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 03:36 UTC 版)
保険会社に放火の疑いで訴訟を起こされたホームズは、1894年7月にシカゴを離れた。彼はウィリアムズ姉妹から受け継いだ地所があるフォートワースに再び現れた。ホームズはシカゴで作ったような「城」をまた建てようと画策し、多くの業者から詐欺を働いた。完成した建物は、シカゴの建物をひとまわり大きくしたような形だった。 ホームズは1894年7月に逮捕され、ミズーリ州セントルイスで抵当に入っている商品を売ったとして、初めて短期間の禁固刑を受けた。彼は当初保釈を試みたが、監獄で25年の刑を言い渡された列車強盗のマリオン・ヘッジペス(英語版)と知り合った。ホームズは自身の死を偽装して、保険会社から1万ドル(2020年時点の$289,577と同等)の保険金を詐取する計画を立てた。ホームズはセントルイスの若い弁護士だったジェフサ・ハウ(英: Jeptha Howe)に指示を出した。ハウは当時兄アルフォンソ・ハウの元で勉強しており、アルフォンソはホームズやピツェルの犯罪に一切関知していなかったものの、ジェフサはこの計画に興味を覚えた。しかしながら、ホームズが偽装死するという計画は、保険会社に疑われて支払を拒まれたため失敗する。ホームズはこの件について訴訟は起こさず、代わりに同じ計画を協力者のピツェルで行うことにした。 ピツェルはホームズの偽装死計画に賛同し、妻が1万ドルの保険金を受け取れるようにし、後にホームズ・ハウに一部を分割する計画を建てた。計画はフィラデルフィアで実行され、発明家の「B・F・ペリー」(英: B.F. Perry)という偽名を用いたピツェルが、実験室での爆発で死亡するという筋書きにされた。ホームズには、爆発で損なわれたピツェルの遺体として相応しい死体を調達する必要があったが、代わりにクロロホルムで失神させ、ベンゼンを用いてピツェルもろとも焼いてしまった。ホームズは、クロロホルムで彼を失神させた後、火を点けるまでピツェルは生きていたのではないかと示唆する告白をしている。続いて彼は、ピツェル本人の遺体を用いて保険金を受け取り、何も知らないピツェル夫人を巧みに騙して、5人の子どものうち3人(アリス、ネリー、ハワード)の養育権を搾取した。ピツェル夫人には、長女と生まれたばかりの赤ん坊の養育権だけが残された。後にホームズの審理で示された法医解剖の結果では、クロロホルムはピツェルの死後投与されており(保険会社はこのことに気付かなかった)、ホームズが殺人の疑いを掛けられないように自殺を偽装したのだと考えられている。 ホームズとピツェル家の子どもたちは、アメリカ合衆国北部を旅してカナダに向かった。同時にホームズは、複数の変名を使いつつ、ピツェルがロンドンに隠れていると騙しながら、3人の子どもの行方を隠しつつ同じようなルートでピツェル夫人と旅をした。カナダに入国する直前のデトロイトでは、ピツェル夫人と子どもたちがわずか数ブロックの距離にいたこともあった。彼は無謀な移動をもう何度か繰り返し、犯罪について何も知らない自分の妻とも旅をしていた。ホームズは後の告白で、アリスとネリーを大きなトランクに入れ、外から鍵を掛けてふたりを殺したと述べている。彼はトランクの蓋に穴を空け、ホースを用いて穴とガスパイプを繋ぎ、少女たちを窒息させた。その後裸にしたふたりの遺体を、賃貸住宅の基礎へ埋め込んだとしている。フィラデルフィアの刑事だったフランク・ガイヤー(英語版)はホームズの後を追ってトロントに辿り着き、アリスとネリーの腐乱死体がセント・ヴィンセント・レーン16番地の地下室にあることを見つけた。浅く埋められた遺体を掘り起こした後、ガイヤーはネリーの足が無くなっていることに気付いた。ネリーが先天性内反足と判明した後、ガイヤーは身元の判明を防ぐため、ホームズが彼女の足を切り取ったのではないかと推察した。その後ガイヤーは、ホームズがコテージを借りたインディアナポリスに辿り着いた。ここではホームズが、ハワードを殺す為に用いた薬を地元の薬局で買ったという通報と、放火の前に遺体を刺したナイフを研ぐため修理店に立ち寄っていたという通報が寄せられていた。コテージの煙突下からは、ハワードの歯とわずかな骨が見つかった。 1894年、警察はホームズの元同房者でジェフサ・ハウを紹介した見返りを踏み倒されたヘッジペスから密告を受けた[要出典]。ホームズの連続殺人は、1894年11月17日にボストンで、フィラデルフィアから付けてきたピンカートン探偵社にホームズが逮捕されたことで終わりを告げた。彼にはテキサス州での馬泥棒で令状が出ており、当局はこの件を捜査していたが、一方のホームズは冷静に、何も知らない3番目の妻と高飛びする準備を着々と進めていた(つまり、ホームズは犯罪について知らない3つのグループと国内を移動して回っていたことになる)。 アリスとネリーの死体が見つかった後の1895年7月、シカゴの警察・記者たちは、「城」"The Castle" と呼ばれたホームズのビルを捜査し始めた。扇情的な報道が多数なされた一方で、ホームズがシカゴで犯罪を犯したという証拠はひとつも見つけられなかった。彼の伝記を書いたセルザーによれば、建物で一連の拷問用具が見つかったという話は、20世紀に形作られたフィクションであるという。 「生まれた時から自分の中には悪魔がいた。詩人が湧き上がる旋律を抑えきれないように、自分が殺人者であるという本性を堪えきれなかった—私はベッドの側で名付け親として立つ『邪悪なやつ』と共に生まれ、そこでこの世界へと誘われ、以来ずっと共にいる」 – H・H・ホームズ 1895年10月、ホームズはベンジャミン・ピツェルを殺した罪で審理にかけられ、有罪・死刑判決が下された。判決までに、ホームズがピツェル家の子どもたちも殺したことが明らかになっていた。彼の有罪判決によると、ホームズはシカゴ・インディアナポリス・トロントでの27件の殺人(彼が告白した殺人には「被害者」が存命だったケースも含まれていた)、6件の殺人未遂を告白したとされている。ホームズは告白に際してハースト・コーポレーションから7,500ドル(2020年の$226,000に相当)を受け取ったが、これはすぐに意味の無いものとなった。ホームズは自分の人生に関して矛盾する発言を繰り返しており、当初無実だと主張していたが、後にはサタンに憑依(英語版)されたのだと述べた。嘘つきがちな彼の性格のせいで、記者たちは彼の証言が本当か検証するのに苦労した。監獄で告白を書いている間、ホームズは収監以来自分の顔貌がどれほど劇的に変わったか言及している。彼は自分の新しく険しい顔貌について「ぞっとするようでサタンを思わせる」(英: "gruesome and taking a Satanical Cast")と表現し、自らの所業全てが、自分の見かけを悪魔に似せてきたのだと確信している旨を書き残している。また自分の顔の片方が「深い犯罪という線で形取られ、悪魔の様相をしている」とも述べている。 1896年5月7日、ホームズはピツェルを殺害した罪で、モヤメンシング刑務所(英語版)(別名:フィラデルフィア郡刑務所)にて絞首刑にされた。処刑に際し、ホームズは穏やかで愛想良く、恐れや不安、抑うつ症状などはほとんど見せなかったという。一方で、自分の身体が墓泥棒に盗まれ解剖に使われないようにと、遺体はセメント詰めにして10 フィート (3.0 m)の深さに埋めてほしいとも求めたという。ホームズは首が折れずに苦しみながらゆっくりと死んでいったとされ、処刑から20分後に死亡宣言されるまで15分以上も痙攣し続けていたとされている。 1909年の大晦日、ホームズの所業を密告したヘッジペスは、シカゴのサルーンで強盗を働き、警官のエドワード・ジャブレク(英: Edward Jaburek)に射殺された。 1914年3月7日には、『シカゴ・トリビューン』で、ホームズの「殺人の城」の管理者を務めていたパトリック・クインランが死亡し、「ホームズの城の謎」(英: "the mysteries of Holmes")が闇に葬られたと報じられた。クインランはストリキニーネを煽って自殺を試み、遺体は「眠れないんだ」(英: "I couldn't sleep.")とする書き置きと共に寝室で発見された。クインランの親戚は、彼が数ヶ月前から「何かに取り憑かれ」(英: "haunted")、幻覚を見ていたようだと語っている。 ホームズの「殺人の城」は、1895年8月に謎の火事に見舞われた。『ニューヨーク・タイムズ』の記事によれば、8時から9時頃に、裏口から入る2人の男が目撃されており、彼らはそれから30分後に逃げるように建物から出て来たとされている。複数回の爆発があった後に建物から出火し、後の調査で建物の裏手から半分空になったガス缶が見つかったという。建物は火事に耐え、1938年に取り壊されるまでそのまま残された。現在ホームズのビルがあった場所にはアメリカ合衆国郵便公社のエングルウッド支店が存在する。
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