琉球の黄金時代
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金丸は即位後尚円王と名乗り、第二尚氏王統が始まる。尚円王は在位7年で亡くなると、世子・真嘉戸樽(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王が即位した。しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸樽に神託を読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王は在位6か月で退位し、越来に引退した。その年の内に薨去したと伝えられる。 1477年に真嘉戸樽は王位に就き、第3代・尚真王として50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築く。彼は仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備した。さらに南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めた。また国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えとした。 第二尚氏は第一尚氏に引き続き、中国に対する朝貢と、進貢品を買うための貿易活動を行った。この点については「海禁政策の間隙を突き、中国と東南アジアとの中継貿易を行った」と説明される事があるが、王府側見解にはそんな話は一切見られない。実際、アルブケルケによれば、1511年時点で中国人商人はマラッカで普通に活動しており、その人口はむしろマレー人より多く最多であるとの事である。この頃の東南アジア貿易については、王府自身の説明は前時代と変わらず「品物が稀少であるのは深く便ならず(本國産物稀少缺乏貢物深爲未便)。だから買いに来ました」としており、進貢品に乏しい内情を強調して、協力を求めている。このような朝貢の在り方について、1606年に尚寧冊封正使として来島した夏子陽は、王府の負担になっている事を指摘して、求めるべきではないとし、また中山の貢物は貧相なのが当たり前なので、貢物の良し悪しは問うべきではない、としている。また従来の二年一貢も、王府には出費が勝っている事実を指摘している。夏子陽はまた、これら海外の産物は日本人から購入しているとも述べている。王府の東南アジア貿易の内情がどうだったのかは、不明な点が多いが、とりあえずこのような貿易について、王府にどれほどの利益があったのか、という根本的問題については、「歴代宝案」によれば、60年間毫も利益が入らない、と王府自身が述べている。 このように明への朝貢は経済的負担が大きかったが、尚真王はこれに対し、領土を広げ、搾取を強化し、年貢収入を増大させる事で経済的基盤を安定させようと試みた。 「先島諸島#歴史」も参照 正史「球陽(141号)」に曰く、「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ」また「忠導氏家譜正統」には、「於是、請命、置役人、諸村令定毎丁賦数矣」とあり、仲宗根豊見親が中山の命令を請け、人頭税を定めた事が述べられている。八重山はこのような恐喝を拒絶したので、中山は公称3000 の兵で1500年(弘治13年)八重山を攻略、オヤケアカハチの乱を鎮圧し石垣島を征服。その後しばらくの八重山統治体制については、史料が混乱しており不明瞭だが、1524年に園比屋武御嶽石門を作ったことで知られる西唐を竹富島に帰郷させ、蔵元(八重山一帯を担当する王府の行政出張機関)を設置させて以後は、蔵元を中心とする統治体制が確立した。さらに1522年には与那国島を攻め鬼虎の乱を鎮圧、征服した。察度の時代から服属していた宮古を含め先島諸島全域を支配下においた。 「奄美群島の歴史」も参照 奄美群島については、1447年、尚思達王が奄美大島を侵攻し、1450年から1462年まで喜界島を征服するためほぼ毎年攻撃していた。1466年、尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧した。1537年には尚清王が、奄美大島の与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。1571年(隆慶5年)には尚元王が、再び反抗を始めた奄美大島北部の首領達を鎮圧している。このように奄美群島、先島諸島を含め王国の最大版図を築いた。 このような年貢収入の増加と関連して、1600年頃に琉球米の日本本土への輸出という商売があった事が「琉球入ノ記」から窺える。既述の如く、中山の海外交易は史料上基本的に、明への朝貢か、朝貢用の物品購入に限られるが、これはその数少ない例外である。ただし輸出を請け負っているのはトカラ海域を本拠とする七島衆である。またこの史料からは、本土からの借金を米で返そうとした事も分かる。ただし結局は、その米すら払わずに踏み倒そうとしている。尚真王が必死で搾取強化に取り組んだにも関わらず、王府の財政が全然好転しなかった事が窺える。 「河充氏家譜」によれば、砂川親雲上旨屋によって、1597年に初めて宮古にサツマイモが導入された。1605年には本島にも野国総管により導入が行われた。八重山については1694年に波照間高康によって行われている。サツマイモは琉球諸島全土の食糧事情を劇的に改善した。宮古・八重山に至っては、米穀は全て在地頭目と王府に搾取されるため、下民は実に20世紀初頭までサツマイモとその葉や海藻が唯一の食糧となっており苛烈を極めた。また人口も増大したが、その反面、子供が多いと人頭税の負担額が増えるため、八重山ではしばしば嬰児殺しによる人口調節が行われ、それは明治時代まで続いた。野国総管と儀間真常の功績は現在も称えられている。因みに、薩摩にはその後1705年に琉球より伝来し、本土では琉球から来た芋としてリュウキュウイモ(琉球芋)と呼ばれ、現在はサツマイモの名称が定着している。 一方、1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。 この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されている。
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