琉球の黄金時代とは? わかりやすく解説

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琉球の黄金時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:32 UTC 版)

沖縄県の歴史」の記事における「琉球の黄金時代」の解説

金丸即位尚円王名乗り第二尚氏王統が始まる。尚円王在位7年亡くなると、世子・真嘉戸(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王即位した。しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸神託読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王在位6か月退位し越来引退した。その年の内薨去したと伝えられる1477年に真嘉戸王位に就き第3代・尚真王として50年わたって在位し、琉球の黄金時代を築く。彼は仏僧意見取り入れ王の死と共に行われてきた女官殉死廃止し御嶽信仰中心とした宗教整備した。さらに南山北山按司首里強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化進めた。また国民所有していた刀剣弓矢没収して、国家による武力一元管理を行うことで国内騒乱を防ぐと共に国防備えとした。 第二尚氏第一尚氏引き続き中国対す朝貢と、進貢品を買うための貿易活動行った。この点については「海禁政策間隙突き中国東南アジアとの中継貿易行った」と説明される事があるが、王府見解にはそんな話は一切見られない実際アルブケルケによれば1511年時点中国人商人マラッカ普通に活動しており、その人口はむしろマレー人より多く最多であるとの事である。この頃東南アジア貿易については、王府自身説明前時代変わらず品物稀少であるのは深く便ならず(本國産物稀少缺乏貢物深爲未便)。だから買いに来ました」としており、進貢品に乏し内情強調して協力求めている。このような朝貢在り方について、1606年尚寧冊封正使として来島した夏子陽は、王府負担になっている事を指摘して求めるべきではないとし、また中山貢物貧相なのが当たり前なので、貢物良し悪しは問うべきではない、としている。また従来の二年一貢も、王府には出費勝っている事実指摘している。夏子陽はまた、これら海外産物日本人から購入しているとも述べている。王府東南アジア貿易内情がどうだったのかは、不明な点が多いが、とりあえこのような貿易について、王府どれほど利益があったのか、という根本的問題については、「歴代宝案によれば60年毫も利益入らない、と王府自身述べている。 このように明への朝貢経済的負担大きかったが、尚真王はこれに対し領土広げ搾取強化し年貢収入増大させる事で経済的基盤安定させよう試みた。 「先島諸島#歴史」も参照 正史球陽141号)」に曰く、「又三府及び三十六島をして重ねて経界正し、税を定め貢を納れしむ」また「忠導氏家正統」には、「於是、請命、置役人、諸令定毎丁賦数矣」とあり、仲宗根豊見親中山命令請け人頭税定めた事が述べられている。八重山このような恐喝拒絶したので、中山公称3000 の兵で1500年弘治13年八重山攻略オヤケアカハチの乱鎮圧し石垣島征服その後しばらくの八重山統治体制については、史料混乱しており不明瞭だが、1524年園比屋武御嶽石門作ったことで知られる西唐を竹富島帰郷させ、蔵元八重山一帯担当する王府行政出張機関)を設置させて以後は、蔵元中心とする統治体制確立した。さらに1522年には与那国島攻め鬼虎の乱を鎮圧征服した察度時代から服属していた宮古含め先島諸島全域支配下においた。 「奄美群島の歴史」も参照 奄美群島については、1447年尚思達王奄美大島侵攻し1450年から1462年まで喜界島征服するためほぼ毎年攻撃していた。1466年尚徳王3000の兵をもって喜界島制圧した1537年には尚清王が、奄美大島与湾大親反抗気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。1571年隆慶5年)には尚元王が、再び反抗始めた奄美大島北部首領達を鎮圧している。このように奄美群島先島諸島含め王国最大版図築いたこのような年貢収入増加関連して1600年頃に琉球米の日本本土へ輸出という商売があった事が「琉球入ノ記」から窺える既述如く中山海外交易史料基本的に、明への朝貢か、朝貢用の物品購入限られるが、これはその数少ない例外である。ただし輸出請け負っているのはトカラ海域本拠とする七島衆である。またこの史料からは、本土からの借金を米で返そうとした事も分かる。ただし結局は、その米すら払わず踏み倒そうとしている。尚真王必死搾取強化取り組んだにも関わらず王府財政が全然好転しなかった事が窺える。 「河充氏家譜」によれば砂川親雲上旨屋によって、1597年初め宮古サツマイモ導入された。1605年には本島にも野国総管により導入が行われた。八重山については1694年波照間高康によって行われている。サツマイモ琉球諸島全土食糧事情劇的に改善した宮古八重山至っては、米穀全て在地頭目王府搾取されるため、下民は実に20世紀初頭までサツマイモとその海藻唯一の食糧となっており苛烈極めた。また人口増大したが、その反面子供が多いと人頭税負担額が増えるため、八重山はしばし嬰児殺しによる人口調節が行われ、それは明治時代まで続いた野国総管儀間真常功績は現在も称えられている。因みに薩摩にはその後1705年琉球より伝来し本土では琉球から来たとしてリュウキュウイモ琉球芋)と呼ばれ、現在はサツマイモの名称が定着している。 一方1500年代末期頃より島津氏琉球対す圧力強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。 この時代記録王府外交文書集成である『歴代宝案』に残されている。

※この「琉球の黄金時代」の解説は、「沖縄県の歴史」の解説の一部です。
「琉球の黄金時代」を含む「沖縄県の歴史」の記事については、「沖縄県の歴史」の概要を参照ください。

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