琉球への渡来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 20:02 UTC 版)
1597年に宮古島に伝来したとする説がある。長真氏等の家譜によると、1594年、宮古島の村役人であった長真氏旨屋(砂川親雲上旨屋)が、宮古島を支配下に置いていた琉球王国首里王府への帰途に逆風で中国に漂着した。1597年に中国を出発したが、今度は九州に流れ着き、それからようやく帰島した。この時に宮古島へ苗を持ち帰ったとする。旨屋は栽培の普及に努め、島では主食となるほどに広まった。死後はンーヌ主(芋の神様)として御獄に祀られている。ただし、サツマイモがフィリピンから中国・福州に伝来したのが1594年であり、1597年はそのわずか3年後であることから、この説には時期的に疑問が呈されており、『宮古史伝』や『宮古島庶民史』は家譜の記述を誤記として退け、宮古への伝来を1618年としている。宮古島から沖縄本島へは伝播しなかった。先島では1612年の与那国島、1694年の石垣島など、それぞれの島ごとに中国から、本島とは関係なくばらばらに伝来し、その島内では急速に普及が図られるものの、他の島へ伝えるのは消極的だった。2013年時点、宮古島の大座御嶽にて甘藷(イモ)の神が祭られている。 1604年或は1605年、当時の琉球王国(現在の沖縄県)の沖縄本島に伝わる。明への進貢船の事務職長(総管)であった野國総管(与那覇 松)という人物が明の福建等處承宣布政使司(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった。種子島や本土に伝来したのはこちらの系統である。 1713年の『琉球国由来記』では、蕃薯には種類があり、皮や実の色から4種類が分類されている。 1609年(慶長14年)の薩摩藩による琉球侵攻に際して、サツマイモが持ち帰られた可能性は否定できない。また、1611年に薩摩藩軍が撤兵する際、尚寧王が宴席にてサツマイモ料理を出し、その美味を味わった薩摩藩士の求めに応じ、サツマイモを進呈した、とされる。 1698年(元禄11年)3月、種子島に伝わる。領主の種子島久基(種子島氏第19代当主、栖林公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて、家臣の西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。西之表市下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建つ。この時の芋は「唐芋(カライモ)」と呼ばれている。西村は栽培するだけではなく、粉や飴、菓子、焼酎など利用法を試行した。このことにより普及が進んだとされている。
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