琉球の古瓦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:06 UTC 版)
「沖縄赤瓦」も参照 琉球においてはグスク時代に瓦が登場したとされる。中世の琉球の瓦は高麗系瓦と大和系瓦に大別され、近世には明式系瓦も生産された。瓦の形状としては本瓦のほかにS字系瓦もある。沖縄では平瓦をミ―ガーラ(女瓦)、丸瓦をウーガーラ(男瓦)、軒平瓦をヒゲガワラ(髭瓦)、軒丸瓦をハナガワラ(花瓦)ともいう。 琉球最古の瓦は「癸酉年高麗瓦匠造」の銘文が型押しされた高麗系瓦とされており、高麗の瓦工によって作成されたともの考えられている。癸酉年については、1153年説、1273年説、1333年説がある。瓦の出土は浦添市と那覇市に集中している。高麗系瓦は浦添城、大和系瓦は勝連城、崎山御嶽を中心に影響がみられ、それらの分布などからグスク時代後半の政治・経済状況が推測できるとする説もある。15世紀に琉球王国が統一を果たすと、およそ2世紀にわたり瓦生産は途絶えたとされる。高麗系瓦の特徴は軒丸瓦の瓦当文様に鰹節状花弁やY字型花弁を有する蓮華文が用いられ、軒平瓦の瓦当文様は蓮華に唐草を巻き付けたような文様がある。大和系瓦の特徴は軒丸瓦の瓦当には巴文、軒平瓦の瓦当には唐草文を用いて、製作技術として一枚作りの影響がみられる。 前述のように琉球の瓦生産は約2世紀にわたり中断して製作技術も断絶するが、その理由は定かではない。また『成宗実録』(1477年)に記載された朝鮮半島から琉球に漂流した人物の記録に「数が少ないものの中国人居住区などに瓦屋根がある」と記されている事や、14世紀末~15世紀中頃に製作されたと考えられる浦添ようどれで発見された石厨子に瓦を模したレリーフがあることなどから、完全に失われてはいなかったとする説もある。 明式系瓦はいわゆる島瓦のルーツと考えられる瓦で、その製法が明代の『天工開物』に記載された造瓦法と酷似することが名称の由来である。『琉球国由来記』と『球陽』には尚永王の代に中国からの渡来人の渡嘉敷三郎が真玉橋で造瓦を始めたと記されており、明式系瓦の製作は16世紀中ごろに始まったと考えられる。17世紀後半には知花、宝口、湧田にあった瓦窯が壺屋窯に統合され、当初は灰色瓦であった瓦が18世紀前後に赤色瓦に変化していく。このような赤瓦は焼成時に窯を密封せず酸化焼成を行うことで生まれる。なお湧田窯跡は平窯で中国式の半倒焔式馬蹄窯とされる。明式系瓦は瓦当は滴水瓦で牡丹文様が多く、瓦と瓦の隙間に漆喰を塗るカーラムチ(瓦餅)も特徴の一つである。こうした瓦も一般建造物への使用は厳しく制限されたことが記録に残されており、瓦葺が一般に普及するのは1889年以降とされる。ただし17世紀頃には蔵を瓦葺にするように指示する記録もある。 また宮古島でも1740年に瓦窯ができた記録があり、宮古式瓦の製作が始まったとされる。宮古式瓦は平瓦の凸面にヘラで画いた文様があることが特徴だが、理由は定かではない。瓦当文様は意匠化された牡丹文様である。石垣島では、1695年に瓦窯ができた記録がある。瓦当文様はかなり意匠化された牡丹文様で、幾何学模様のようにも見えることがある。
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