村井氏とは? わかりやすく解説

村井氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/28 03:58 UTC 版)

村井氏
本姓 平氏
家祖 村井長頼
種別 武家
士族
華族男爵
主な根拠地 加賀国
東京市目黒区駒場町
凡例 / Category:日本の氏族

村井氏(むらいし)は、武家士族華族だった日本氏族前田利家の重臣村井長頼を祖とし、江戸時代には加賀金沢藩年寄八家の一つとなり、維新後には士族を経て華族の男爵家に列した[1]

歴史

平氏と称する[2]前田利家に仕えて諸戦に戦功をたて、織田信長豊臣秀吉からも賞された村井長頼を祖とする[3]。長頼は隠居する文禄元年(1592年)までに前田家で1万1200石を知行し[2]、その子孫は江戸時代に加賀金沢藩で「八家」と呼ばれた家老家の一つとなり[1]、1万6569石を食んだ[1]。八家は陪臣ながら御三家家老などと同様に4名に官位(諸大夫成)が許されており、村井家も親長長堅長世の三人が従五位下豊後守に叙されている[1]

明治維新後には士族となった[1]。明治17年(1884年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『爵位発行順序』所収の『華族令』案の内規(明治11年・12年頃作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年頃作成)では万石以上陪臣が男爵に含まれており、村井家も男爵候補に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では旧万石以上陪臣は授爵対象外となったため結局村井家は士族のままだった[1]

明治15年・16年頃作成と思われる『三条家文書』所収『旧藩壱万石以上家臣家産・職業・貧富取調書』は、当時の当主村井恒(長在)について所有財産を金禄公債1万円、横浜正金銀行株金1000円、職業は旧金沢藩主前田利嗣家令、貧富景況を相応と記している[1]

旧万石以上陪臣の叙爵が開始されていた時期である明治33年(1900年)5月9日、恒の孫長八郎が華族の男爵に叙せられた[4]。長八郎は農商務省の官僚で各地の営林署長を歴任した[5]。彼の代に村井男爵家の邸宅は東京市目黒区駒場町にあった[6]

長八郎の子長正昭和天皇侍従を務め、その後日本大学教授になった[2]

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g 松田敬之 2015, p. 722.
  2. ^ a b c 森岡浩 2012, p. 498.
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『村井長頼』 - コトバンク
  4. ^ 松田敬之 2015, p. 721.
  5. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 476.
  6. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 475.

参考文献


村井氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「村井氏」の解説

小諸入封時の村井藤左衛門政成は、「家禄80石で給人役職にあった小諸封前後の重臣名簿小諸藩一次史料)には、村井姓は一切見られないその後代々抜擢人事を受け立身門閥排斥跳ね返して融和しながら出世遂げていった。幕末近く天保期に用人格の格式家老職末席就任したが、家老格式を持つ家柄となることはなかった。 その家祖は、与板在封期に浪人者から仕官し給人馬上家禄80石の家柄となったその後用いられ与板藩寺社奉行江戸留守居添役職に就任20加増で計100となったが、20石の加恩は1代限りもので80給人連綿していた。与板仕官以前については、伝説あるようではあるが、史料学的に耐えうる先祖や、先祖兄弟特定できない下記掲載され参考文献・出典根拠とすれば小諸家臣である村井政成が家老用人加判番頭などの要職小諸入封時、就任していたことは、絶対にあり得ない小諸入封8年後の宝永7年からと、宝暦8年からの2代わたって抜擢により用人加判職を勤めた用人就任2代目隠居するとき、家を分け持高減石せず(分家を分出せず)3代続いて安永4年村井兵衛盛英が就任確実となったが、用人衆を中心に家臣団の中から排斥反対運動湧き上がり就任一時延期される事態となった。村井氏が3代連綿して用人職に就任しても、用人格の家柄重臣の列としないことを条件に、用人職に就任させたことを、うかがわせる一次史料現存。村井氏登用反対派首領は、加藤本間牧野(勝兵衛であった幕末・維新期におきた小諸騒動時期除き重臣登用にあたってあからさまに強い排斥が出るのは、非常に珍しいことである。享保年間から明和年間にかけて、用人格以上の格式家柄を持つ家臣が、増加してきたため、用人格の家柄でも用人職の役職に、なかなか就任できない態となってきたため歯止めをかける必要があった。小諸入封時に家禄100未満80石)の格式しかなかった中堅士分出自たる村井氏は、重臣門閥既得権益を守るために、排斥されたともいえる。また概ねこの頃、村井氏分家に罪があり、改易取り潰しとなっていたことも見逃せない微禄の村井氏分家は、長く続いた家系ではなかった。小諸藩一次史料には、村井氏分家記録があるが、取り潰し等の年月が、必ずしも記述されていない一方で史料補綴りされている順番で、ある程度年月特定できるのである村井盛英は、持高120石・用人格・用人加判勤め、1代限り本間氏より格上格式であったここでいう持高には、給人地分が含まれていないため、村井盛英のときには小諸入封直後80石・給人)の2倍以上の実収入を得るまでに班を進めていた。文化4年6月不調法があり失脚引責隠居となった病身老化による不調法であったとみられ、軽微なものであった懲戒処分による隠居減石であったとする史料がないため、自発的な引責隠居であったとみられる村井盛英は、惣領の盛住に家督相続させたが、先約があったためか、不調法があり遠慮したためか、用人格の格式連綿する家柄とはならなかった。村井盛住は相続時、持高100石(家格番頭格)であった。御刀番・大目付番頭職・用人職と段々と立身一時的に先代持高の内、20石が減石となった数年後回復しただけでなく、加増となった。この20減石は、分家の分出や懲戒処分よるものではなく1代限り加恩消滅したのである。村井氏は用人加判職に4代連綿して就任したことが、高く評価されて、小諸惣士草高成立時までに鳥居氏、倉地氏より、連綿する家の格式序列上位になったこの間本間氏大きく班を進めたことで、文化年間頃は、連綿する家の格式及び、役職上の格式双方において、村井氏は本間氏より格下となったその後天保8年本間氏失脚と、天保15年木俣氏失脚があり、村井氏は、連綿する家の格式序列格上げされわけではないのに、相対的な序列をあげ、天保15年末を基準とすると、この順位家臣中第6位となった天保3年村井兵衛盛堯は用人格で抜擢家老就任して役職上の序列一時的に第3席とした。退役時、連綿する家の格式は、据え置きとなった用人格)。家老職を1代勤めても、家の格式は上がらなかった。 村井兵衛盛堯から家督相続した村井藤左衛門盛徳は、幕末・維新期ごろ、数代前までは不仲であったとみられる加藤氏一味となっていた。村井盛徳は、10代藩主家督相続前廃立しようと企てた疑い持たれて、10代藩主治世になってから一時失脚長岡藩調停復権加藤氏立場近かった小諸家臣4名の斬首には直接関与していなかった。村井盛徳は、小諸家臣斬首執行の前及び後も、重臣の列にあった小諸騒動糾明のため加藤六郎兵衛牧野求馬が東京呼び出されて、審問されるようになると、村井盛徳は、僅かな期間ではあるが実質的に小諸国許を預かる責任者となった。ただし、村井盛徳首席家老相当する役職就任したわけではない国立公文書館資料史料)には、注意して解釈しないと、誤認しすいものがある。この当時、藩財政累積黒字であったと見られるが、加藤六郎兵衛牧野求馬の上京と審問対策による経費増の対策として、徴税強化行い騒動徴税強化批判した町人僧侶等を弾圧町人弾圧命じた書状現存加藤牧野馬派失脚時(明治2年9月)、村井盛徳は、入牢謹慎などの処罰受けていないが、役職上は旧制度でいう足軽頭当の格式に、大きく格下げとなった会計幹事勘定奉行相当) の就任認められた。 村井盛徳は、格下げ後まもなく自発的に隠居したが、用人連綿家柄は、取りあげとならなかった。村井盛徳は、小諸家臣4名の斬首執行前から重臣であったが、実は小諸家臣斬首執行後(明治元年11月)に、用人格の格式家老職相当する昇進をしていた。 盛徳から家督相続した村井成遂は足軽鉄砲隊長を経て小諸練兵教授となり士分上禄列した維新時、村井姓の士分は1家。 村井氏は、小諸藩一次史料並びに下記掲載され参考文献・出典根拠とすれば小諸入封時の家臣村井藤左衛門政成から、幕末・維新期当主まで家老職連綿したり、家老家柄連綿していたことは、あり得ない

※この「村井氏」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
「村井氏」を含む「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事については、「小諸藩牧野氏の家臣団」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「村井氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「村井氏」の関連用語

村井氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



村井氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの村井氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小諸藩牧野氏の家臣団 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS