最終戦までの経緯
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「2007年J1最終節」の記事における「最終戦までの経緯」の解説
中断期間前はガンバ大阪が首位で折り返した。再開後は、G大阪との直接対決を制した浦和が首位に立つ。また、一時は15位にまで順位が落ちた鹿島も以前の中心選手小笠原満男がイタリアのクラブから復帰すると状態を持ち直し優勝争いに参戦。浦和はその後も勝ちを積み重ね首位を独走し、第30節終了時点で2位G大阪に勝ち点7、3位鹿島に勝ち点8の差を付け、第31節にも優勝が決まる状況になる。また浦和は並行して行われていたAFCチャンピオンズリーグでJリーグ勢初の優勝を決める。 ところが、浦和はここから過密日程の影響もあってチーム状態が一気に下降、第30節から3試合連続引き分けともたついてしまう。一方の鹿島は、第26節から第32節までの7連勝で2位に浮上し、浦和との勝ち点差を4にまで縮めた。それでも浦和は第33節での鹿島との直接対決に勝てば無条件で、引き分けでも勝ち点5差の3位G大阪が勝てなければ優勝決定であったが、ホームで鹿島に0-1で敗れ、勝ち点差はついに1になって最終節を迎える。なおG大阪はヴィッセル神戸と1-1で引き分けたため、優勝の可能性が消滅した。 第33節終了時点での上位順位表順位クラブ試合勝点勝利引分敗戦得失点差得点失点備考1 浦和レッズ 33 70 20 10 3 +28 55 27 2 鹿島アントラーズ 33 69 21 6 6 +21 57 36 3 ガンバ大阪 33 66 19 9 5 +34 69 35 2位以下確定
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最終戦までの経緯
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「2001年J2最終節」の記事における「最終戦までの経緯」の解説
二部制導入3シーズン目となった2001年のJ2は、前シーズンのJ1年間成績下位2チームの京都パープルサンガと川崎フロンターレ、前年の日本フットボールリーグ (JFL) 優勝により昇格した横浜FCを加えた12チームによる4回戦総当たり(各チーム44試合・全44節)により行われた。 J1への昇格争いは、降格した京都、川崎、前シーズン及び前々シーズンと2年続けてを勝ち点差1により昇格を逃した大分の3チームが中心となると見られていた。 大分は元ベルギー代表のロレンツォ・スターレンスを獲得するなど戦力補強を行い、3年越しのJ1昇格を目指したものの開幕から思うように勝てず、第11節でモンテディオ山形に敗れると石崎信弘監督が解任された。後任には小林伸二が昇格したが監督交代後も苦戦が続いた。シーズン中盤までは元コンサドーレ札幌のFWバルデスを補強した大宮アルディージャが一歩抜け出し、一時は2位の京都に勝点8差を付けた。しかし、バルデスはパナマ代表の試合で故障、さらにもう一人の得点源、ジョルジーニョも怪我で戦線離脱、共にシーズン絶望の大怪我。得点源を失った大宮は一気に失速した。 代わって京都が首位に立ち40節までその座を保ち続けるが、第41節で横浜FCに勝利した仙台が6試合負けなし(5勝1分)で首位浮上、初のJ1昇格に向けて大きく前進する。しかし、第42節のヴァンフォーレ甲府、第43節のサガン鳥栖と下位2チームに連敗。その間に京都は白星を重ね、第43節の湘南ベルマーレ戦に勝利したことにより京都のJ2優勝およびJ1昇格が決まった。さらに連敗の仙台に代わって山形が仙台と同勝点ながら得失点差で2位となり、仙台は3位に後退。大分は終盤で3連勝したことで辛うじて昇格の可能性を残し、43節終了時点でJ1昇格の可能性があるチームは山形・仙台・大分の3チームに絞られた。 2001 Jリーグ ディビジョン2 上位順位表(第43節終了時点)順位チーム勝点試合勝利(90分勝)(延長勝)引分敗戦得点失点得失点差備考1 京都パープルサンガ 84 43 28 23 5 5 10 79 47 +32 J2優勝決定 2 モンテディオ山形 80 43 27 20 7 6 10 61 38 +23 3 ベガルタ仙台 80 43 26 23 3 5 12 77 56 +21 4 大分トリニータ 77 43 25 24 1 3 15 74 51 +23 当時の勝ち点は「90分勝ち:3、延長(Vゴール)勝ち:2、引き分け:1」であった。
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最終戦までの経緯
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「2005年J2最終節」の記事における「最終戦までの経緯」の解説
J2全体では前評判どおり京都が独走していたが2位以降は混戦で、3位の札幌から9位の水戸まで勝ち点差が6の中に7チームがひしめき合う状態で前半戦を折り返した。シーズン後半も勢いが止まらず首位を独走していた京都は第37節に水戸ホーリーホックを3-1で下し、自動昇格となる年間2位以内を決めた。 第39節までの順位(上位6チームまで)順位クラブ名勝点勝分負得点失点差1 京都パープルサンガ 87 27 6 6 78 34 +44 2 アビスパ福岡 67 18 13 8 62 43 +19 3 ヴァンフォーレ甲府 62 17 11 10 72 53 +19 4 ベガルタ仙台 60 17 9 13 60 44 +16 5 コンサドーレ札幌 56 15 11 13 45 46 -1 6 モンテディオ山形 54 13 15 11 46 41 +5
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最終戦までの経緯
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「2000年J2最終節」の記事における「最終戦までの経緯」の解説
二部制導入2シーズン目となった2000年のJリーグ ディビジョン2 (J2) は、前シーズンのJ1年間最下位に沈んだ湘南ベルマーレ(湘南、「ベルマーレ平塚」から改称)と、前年のJ1最終節で無念の降格となってしまった浦和の降格2チームに、前年の日本フットボールリーグ (JFL) で3位に入り昇格した水戸ホーリーホック(水戸) を加えた11クラブによる4回戦総当たり(各チーム40試合、全44節)により行われた。 J1昇格争いは、降格にもかかわらず主力がほとんど残留し「1年でのJ1復帰」を至上命令に掲げた浦和、前シーズン勝ち点差1により昇格を逃した大分、そしてワールドカップフランス大会の日本代表監督であった岡田武史体制2年目となったコンサドーレ札幌(札幌)の3チームによる争いとなった。 シーズン開幕当初は浦和が連勝を続けるが、リーグ戦だけで40試合という長丁場に加え、J1に比較して整わない競技環境や守備重視のJ2特有の戦術に苦しみ、さらにこの年の夏に行われたシドニーオリンピックの関係などから、徐々にそのペースを落としていった。その一方で、札幌は有珠山の火山活動が活発化した関係から室蘭市入江運動公園陸上競技場でのホームゲームが延期・会場変更になるなど日程変更を余儀なくされるも、この年J2得点王に輝いたFWエメルソンの決定力が光り、第2クールを全勝で折り返すと、7月29日に札幌厚別公園競技場で行われた浦和戦を2-1で勝利し、17試合無敗(16勝1分)を達成するなど、中盤以降は他チームを引き離して独走状態となった。 そして大分はこのシーズン、なかなか成績が上がらない状況にあった。FWヴァルディネイの退団により獲得したFWルシアノが戦術にあわず、FWアンドラジーニャをガンバ大阪(J1)から移籍させるといった按配であった。しかしその甲斐もあり、少しずつ成績は上向いていった。 札幌が昇格への勝ち点を6とした10月3日、浦和はゼネラルマネージャーの横山謙三が総監督として現場復帰、斉藤和夫監督に代わってチームの実質的な指揮を執ることを発表(斉藤監督自身は監督の肩書きのままクラブに残留)し、1年でのJ1復帰をなんとしても果たすべく動き出した。 10月21日、札幌は湘南戦(平塚競技場)で3-0と勝利し2シーズン振りのJ1昇格を決定。29日の大宮アルディージャ(大宮)戦(札幌厚別公園競技場)を2-0と勝利し、4試合を残してJ2優勝を決めた。 これによりJ1昇格の座は残りひとつとなったが、その行方は最終節まで持ち越しとなった。
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最終戦までの経緯
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「1999年J1最終節」の記事における「最終戦までの経緯」の解説
1999年、Jリーグはこのシーズンから2部制を導入。J1(当時16チーム)年間総合成績の下位2チームがJ2(当時10チーム)の上位2チームと自動入れ替えすることとなった。 この年、まず低迷したのはベルマーレ平塚(平塚、現・湘南ベルマーレ)だった。平塚は前年、親会社であるフジタの経営不振によりクラブの規模を縮小し、呂比須ワグナーや名塚善寛、小島伸幸、田坂和昭、洪明甫といった代表クラスの選手を大量放出。若手中心で99年シーズンに臨むも1stステージは最下位。2ndステージも浮上のきっかけをつかめず年間わずか4勝にとどまり、2ndステージ第12節に15位以下(降格)が決定した。 一方、浦和は、前シーズン(1998年)の2ndステージで3位と躍進したことにより優勝戦線に絡むと予想されていたが、永井雄一郎や小野伸二がFIFAワールドユース日本代表、石井俊也がシドニー五輪予選の代表としてチームを離れることが多かったうえに、吉野智行や盛田剛平などの新人選手の成績が振るわずベストメンバーが組めない状況が続き、1stステージは13位と振るわず、浦和は原博実監督を解任し、2ndステージからオランダ人のア・デモスを監督として招聘した。ところが、シドニー五輪の一次予選で小野伸二がひざを負傷してシーズンのほとんどを離脱するなどのため連敗を重ね、さらには第6節・ジュビロ磐田戦から第9節・名古屋グランパスエイト戦まで4試合連続延長Vゴール負けを喫するなどにより、J1残留争いに巻き込まれることになる。 市原はこの年、前年の天皇杯で横浜フリューゲルスを優勝に導いたゲルト・エンゲルスを監督として招聘するも、前シーズンまで司令塔として機能したネナド・マスロバルの穴を埋めることができず、守備が崩壊したこともあって1stステージで15位と低迷。エンゲルスを解任しニコラエ・ザムフィール監督で臨んだ2ndステージもチーム状況の劇的な改善とはならず、降格圏をなかなか脱出できない。 また、前年のJ1参入決定戦で辛うじてJ1参入を果たした福岡もなかなか波に乗れず、降格圏ぎりぎりの順位をさまようこととなり、シーズン終盤には浦和・市原・福岡の3チームが残留を争う構図となった。 11月23日に行われた2ndステージ第14節、この時点で降格圏の15位は市原(勝ち点22)。14位の浦和とは勝ち点差3、13位の福岡とは勝ち点差が6あり、さらに福岡とは得失点差で10点離され絶体絶命の状況にあったが、福岡のホーム・博多の森で行われた直接対決で市原が福岡に5-0と大勝。残留可能性を残す勝ち点差3以内を確保するとともに、逆に得失点差でのアドバンテージを確保して残留への望みをつなぐ。一方、14位の浦和はヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に試合終盤に追いつかれ引き分けて勝ち点1の上積みにとどまる。これにより市原に勝ち点差1にまで詰め寄られ、浦和にとって後味の悪いかたちで残留争いは最終節にまでもつれ込むこととなった。その最終節を残し、順位は以下の通りとなった。 2ndステージ第14節終了時点での年間総合順位(抜粋)順チーム試勝延勝分敗得失差点出場権または降格13 アビスパ福岡 29 7 3 1 18 41 57 −16 28 14 浦和レッドダイヤモンズ 29 7 0 5 17 38 58 −20 26 15 ジェフユナイテッド市原 29 5 4 2 18 40 56 −16 25 16 ベルマーレ平塚 29 4 0 1 24 28 69 −41 13 J2へ降格 ※平塚は11月20日の時点で降格決定。
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