巨人復帰
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カブスをFAとなった時点で日本球界復帰やマイナー契約の意志はなく、MLBから契約のオファーがなければ同年限りでの引退の可能性も示唆していた。しかし、2018年になると一転して日本球界への復帰を示唆。そして3月9日に古巣の巨人と1年契約を結び、同日に入団記者会見が行われた。かつての背番号「19」は菅野智之が着用していたため、「11」を背負うこととなった。これは空番から本人が指定した。契約金は1億円、推定年俸は2億円+出来高払い(いずれも推定)となり、同日付で支配下選手登録公示された。 2018年3月31日の阪神タイガース戦の8回に4番手として、2008年10月5日の対中日戦以来3,464日ぶりのNPB公式戦登板を果たし、1回を三者凡退無失点に抑えて公式戦3,535日ぶりのホールドを挙げた。しかし、オープン戦での段階での入団だったにも関わらずすぐ一軍に合流したことから調整不足に陥り4月10日のDeNA戦と4月15日の広島東洋カープ戦で打ち込まれ2試合連続で敗戦投手となる。同年のマイナビオールスターゲーム2018に中継ぎ投手部門のファン投票で選出され、11年ぶりに球宴へ出場。第2戦(リブワーク藤崎台球場)の6回に4番手で登板。43歳3か月での球宴登板となり、2006年に当時チームメイトだった工藤公康が記録した球宴最年長登板(43歳2か月)を更新。7月20日、広島東洋カープ戦の7回に3番手で登板してホールドを挙げ、世界で2人目、日本人では史上初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドを記録した。しかし夏場に入ると再び打ち込まれる場面が目立ち、7月26日のヤクルト戦で延長11回から登板するも山田哲人に勝ち越し適時打を打たれて敗戦投手となり、翌27日に二軍へ降格した。その後、調整を経て8月25日に再昇格すると以降はシーズン終了まで一軍に帯同した。日本復帰1年目は36試合に登板し、5敗14ホールド・防御率3.63を記録した。10月23日、左膝のクリーニング手術を受けた。経過を見極める必要性から、10月29日に一度自由契約となったが、12月14日に自身のブログを更新し、巨人と再契約を結んだことを明かした。これについて、巨人へFA移籍した炭谷銀仁朗、丸佳浩の人的補償として上原をとられないための「プロテクト外し」だったのではないかと指摘され、上原本人は球団の考えは分からないが裏はないと否定、巨人側も否定したが、一連の出来事は一部で「出来レース」「人的補償からの一時避難」ではと指摘された。 2019年からは、菅野が背番号を「18」へ変更したため、メジャー移籍前に使用していた背番号「19」を再び背負うことになった。また、中日に在籍していた岩瀬仁紀が2018年限りで現役を引退したことにより、同い年でもある千葉ロッテマリーンズの福浦和也と並んで球界最年長選手となった。開幕は一軍入り出来ず、二軍スタートとなった。
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巨人復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:09 UTC 版)
2017年3月21日に1年間の失格処分が満了となったことを受けて、野球協約に基づいた復帰手続きとして、3月22日に高木から復帰申請書が球団に提出され、翌23日に球団が意見書を添えてコミッショナーに提出された。コミッショナーから復帰を正当と判断された3月27日に育成選手として巨人と再契約。推定年俸は240万円。 野球賭博で失格処分を受けた選手が、初めて現役復帰する事例となった。番号は028で、再契約当初は三軍に所属。4月26日には、ベースボール・チャレンジ・リーグの武蔵ヒートベアーズとの交流戦(ジャイアンツ球場)に8回裏から登板すると、最速143km/hのストレートで1イニングを無失点に抑えた。高木が巨人の投手として(非公式戦を含む)対外試合へ登板したのは、2015年10月11日に阪神とのクライマックスシリーズ ファイナルステージ第2戦(東京ドーム)に救援で登板して以来1年半振りであった。後に三軍戦6試合への登板を経て、5月中旬に二軍へ昇格。5月17日には、イースタン・リーグの対ヤクルト戦(ジャイアンツ球場)6回表に公式戦への復帰登板を果たすと、1イニングを無安打無失点に抑えた。しかし、2017年中に支配下登録には復帰できず、17試合登板、33回2/3で3勝1敗、防御率4.54とブランクをやや感じさせる二軍成績に終わった。2017年10月31日、自由契約公示され、11月20日、180万円増の推定年俸420万円で再度育成選手契約を結んだ。 2018年2月20日から那覇の一軍キャンプに合流。3月6日、ZOZOマリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ戦でオープン戦初登板、4試合に登板して防御率1.80を記録。3月23日、失格処分以来2年ぶりに支配下登録されたことが発表された。背番号は2012年の入団時と同じ57。一軍の開幕メンバーに入り、開幕戦となる3月30日の対阪神戦(東京ドーム)、4点ビハインドの8回から救援で登板し、1回を無失点で抑え、復帰登板を果たした。失格処分前の2015年クライマックスシリーズでの登板以来、901日ぶりの一軍登板となった。しかし、4月7日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)では救援で2回6失点と炎上し、翌4月8日、出場選手登録を抹消された。そのまま一軍に再登録されることなくシーズンを終え、3試合登板で、0勝0敗、防御率12.60となった。11月19日、80万円増の推定年俸500万円で契約を更改した。 2019年5月2日、東京ドームでの中日ドラゴンズ戦で、1307日ぶりの勝利投手となった。6月4日、楽天生命パーク宮城での東北楽天ゴールデンイーグルス戦に8回裏から登板すると、浅村栄斗に勝ち越しのソロ本塁打を打たれ、登板試合での連続無敗記録が途切れかけたが、直後の9回表にクリスチャン・ビヤヌエバが逆転の2点本塁打を打ち、初黒星を免れた。しかし6月14日の札幌ドームでの北海道日本ハムファイターズ戦において王柏融に勝ち越しの2点本塁打を打たれプロ7年目、通算165試合目にして初黒星を喫した。終盤戦は体力面から打ち込まれる場面が見られたものの、自己最多の55試合に登板し、3勝1敗10ホールド、防御率3.83という成績でブルペンを支えた。11月28日、2500万円増の推定年俸3000万円で契約を更改した。 2020年、開幕一軍入りを果たしたものの、8月3日に出場選手登録を抹消。翌日、原監督が、股関節痛による抹消であることを明かした。以降はリハビリ調整を続け、9月23日の三軍戦で実戦復帰したものの、シーズン中の一軍復帰は果たせず、シーズン成績は17試合登板、0勝1敗4ホールド、防御率3.65となった。故障の影響により、11月11日に球団から育成契約移行を前提として自由契約とされることが発表された。12月9日に500万円減の推定年俸2500万円で育成契約を結んだ。背番号は「057」に変更された。 2021年、キャンプは三軍スタートとなったが、2月18日に一軍キャンプに合流。3月5日、再び支配下登録になることが発表され、即日公示された。背番号は前年と同じ「57」に変更された。クライマックスシリーズファイナルステージでは先発未経験ながら第4戦の予告先発投手となったが、第3戦でチームの敗退が決まったため幻となった。
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巨人復帰
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「エドガー・ゴンザレス (内野手)」の記事における「巨人復帰」の解説
2012年5月14日に古巣の読売ジャイアンツと契約合意したことが発表された。背番号は「42」で、契約金を含む年俸は2,500万円と報じられた。また、2010年の在籍時はスコアボードの表記および呼称のみで用いていた「エドガー」を正式な登録名として用いることになった(背ネームは「EDGAR」)。球団史上、一度退団した外国人選手が復帰するのは初のケースである。復帰後は長打力とともに、粘り強い広角打法も披露。自らの数字が下がる進塁打などもサインに忠実に打ち、小笠原道大が二軍落ちして空いていた一塁手のレギュラーを獲得し、7月中旬までは好調を維持していた。しかしその後は7月14日からの出場15試合でわずか5安打と不振に陥って先発を外されることも多くなり、8月8日についに二軍落ちした。一軍復帰後も正捕手の阿部慎之助が足の怪我の影響で一塁での出場が多くなっていることもあって、出場機会は限定的なものとなっていた。クライマックスシリーズでは出番が無かったが、日本シリーズでは第5戦に指名打者で出場し、適時二塁打を放つなど2安打1打点と活躍し、チームの日本一に貢献した。11月30日に保留選手名簿から外れ、自由契約公示された。
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巨人復帰
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3月1日に入団テストを経て巨人に復帰したものの、当時投手コーチの堀内恒夫が復帰に猛反発した事が影響し、オープン戦でも1度しかチャンスを与えて貰えずペナントレースでは一軍登板は無く、同年10月13日に引退を表明した。東京スポーツの運動部デスク・溝口拓也によると堀内だけが「西本なんていらねえ」と言っていたという。
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