戦前プロ時代
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初代主将で教育係でもあったが、初戦のオープン戦途中に赤紙の令状を受け、それをポケットに押し込むと 「打て!、打て!」とナインを叱咤し、2年間兵役に服し青島にいた。そのため試合出場はなく、復員した1940年から戦時下の1942年まで南海でプレー。1941年の太平洋戦争開戦直前に行われた職業野球東西対抗戦(現在のオールスターゲーム)でも西軍の四番を打った。この試合に出場した選手の大半はこの後戦地に送られ、吉原正喜、鬼頭数雄、村松幸雄らは帰って来ることはなかった。 1942年には打撃三部門(打率・本塁打・打点)で全て2位。同年7月11日の後楽園球場での対名古屋軍戦で、1試合3本塁打のプロ野球新記録を達成。戦前に記録した唯一人の選手である。1938年の綿製品禁止令以降、粗悪となった用具が更に進んだ年の記録で、本塁打王・古川清蔵が105試合で8本、南海のチーム本塁打が11本という年の1試合3本塁打であった。再び招集を受け同年限りで退団。 戦争末期は郷里の三次市に引き上げていた。その頃、呉海軍工廠に勤める知人から「砂糖をやるから取りに来い」という話があり、1945年8月6日に一番列車で行く予定でいたところ、体がだるくて三番列車になり、広島に向かう途中で原爆投下を知らされた。いったん三次に戻ったのち、在郷軍人を集めた広島の救援活動に従事した。このため、「入市被爆者」として被爆者健康手帳の交付を受けている。 戦後はアマチュアの全広島でプレー後、1947年からは広陵の後輩・白石勝巳が創部して監督を務めていた植良組(別府市)に、白石の巨人復帰による後任を頼まれ選手兼任監督として在籍。チームはその後解散。親戚縁者から20万円をかき集め、退職金として選手たちに分け与えた。1949年、この借金の精算のため、石本秀一の要請で大陽ロビンスに37歳で7年ぶりにプロ球界に復帰したが、高齢のため契約金は無かった。
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