戦前プロ時代とは? わかりやすく解説

戦前プロ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 10:12 UTC 版)

岩本義行」の記事における「戦前プロ時代」の解説

初代主将教育係でもあったが、初戦オープン戦途中赤紙令状を受け、それをポケット押し込むと 「打て!、打て!」とナイン叱咤し、2年兵役服し青島にいた。そのため試合出場はなく、復員した1940年から戦時下1942年まで南海プレー1941年太平洋戦争開戦直前行われた職業野球東西対抗戦現在のオールスターゲーム)でも西軍四番打った。この試合出場した選手大半この後戦地送られ吉原正喜鬼頭数雄村松幸雄らは帰って来ることはなかった。 1942年には打撃三部門(打率本塁打打点)で全て2位同年7月11日後楽園球場での対名古屋軍戦で、1試合3本塁打プロ野球新記録達成戦前記録した唯一人選手である。1938年綿製品禁止以降粗悪となった用具が更に進んだ年の記録で、本塁打王古川清蔵105試合で8本、南海チーム本塁打11本という年1試合3本塁打であった。再び招集を受け同年限り退団戦争末期郷里三次市引き上げていた。その頃呉海軍工廠勤め知人から「砂糖をやるから取り来い」という話があり、1945年8月6日一番列車で行く予定でいたところ、体がだるくて三番列車になり、広島に向かう途中で原爆投下知らされた。いったん三次戻ったのち、在郷軍人集めた広島救援活動従事したこのため、「入市被爆者」として被爆者健康手帳交付受けている。 戦後アマチュアの全広島プレー後、1947年からは広陵後輩白石勝巳創部して監督務めていた植良組(別府市)に、白石巨人復帰による後任頼まれ選手兼任監督として在籍チームその後解散親戚縁者から20万円をかき集め退職金として選手たち分け与えた1949年、この借金精算のため、石本秀一要請大陽ロビンス37歳7年ぶりにプロ球界復帰したが、高齢のため契約金無かった

※この「戦前プロ時代」の解説は、「岩本義行」の解説の一部です。
「戦前プロ時代」を含む「岩本義行」の記事については、「岩本義行」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦前プロ時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦前プロ時代」の関連用語

戦前プロ時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦前プロ時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの岩本義行 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS