学者としてのキャリア
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「テレキ・パール」の記事における「学者としてのキャリア」の解説
18歳の時にブダペスト大学に入り、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンやローツィー・ラヨシュ(ハンガリー語版)[要リンク修正]、チョルノキー・イェーノ(ハンガリー語版)らに地理学を学び、さらに政治学も学んだ。1898年には地理学者としての最初の研究を発表している。また経済学の特別聴講生やブダペスト大学地理学研究所の助手を務める一方で、1903年にはブダペスト大学の政治学博士の学位を取得している。1905年にはハンガリー王国議会の議員となったが、これは学者としての地位による名誉職的なものであった。1906年にはハンガリー地理学協会の会員となり、1909年から12年間、ハンガリー地理学研究所の所長を務めた。1908年には国際地理学会議で「日本列島の地図作成の歴史」という論文を発表している。この論文によってフランス地理学会の権威ある賞であるジョマール賞を受賞し、世界的な地理学者であると認識されている。1919年にはブダペスト経済大学の政治学教授となり、政治地理学を教えていた。たびたび外遊を行い、各国の要人と交流を深めていた。大のイギリス好きでもあり、イギリスの首相デビッド・ロイド・ジョージとは特に親しい関係であった。 一方で、テレキは場所と人、場所と社会は密接に結びついていると主張しており、ハンガリーが敗戦を迎えた1920年には詳細なハンガリー民族(マジャール人)の分布地図を作成している。テレキはこの地図を「ハンガリー人の血の通った地図」と呼び、トリアノン条約による領土修正の不当さを訴えた。 またツラニズムの信奉者でもあり、1910年にはツラン協会の創設メンバーとなり、1913年から1916年までの間会長、1916年から1918年までは副会長を務めている。協会が1918年に東洋文化センターと改称して以降はそれほど関わりを持たなくなったが、名誉会長としての地位は死ぬまで続けている。
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学者としてのキャリア
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「ラルフ・リントン」の記事における「学者としてのキャリア」の解説
リントンはマルケサスから戻った後、ハーバードの伝手を使ってシカゴのフィールド自然史博物館での地位を確保している。彼の公式の地位は、アメリカインディアンの資料のキュレーターだった。彼は大学院生として最初に始めたオハイオ州での発掘作業を続けが、その一方でポーニー族に関する博物館のアーカイブ資料の作業を開始し、他の人が収集したデータを一連の記事や博物館速報で公開した。フィールド自然史博物館にいる間、彼はイラストレーターであり、将来の児童書作家であり作家でもあるホーリン゛区・C・ホーリングと仕事を一緒にしていた。 1925年から1927年にかけて、リントンはフィールド自然史博物館のためにマダガスカルへの大規模な収集旅行を行い、マルケサスでこの文化の東端を研究した後、オーストロネシアのディアスポラの西端を探索した。彼はそこでも自身のフィールドワークを行い、その結果の本『タナラ:マダガスカルの山岳民族』("The Tanala: A Hill Tribe of Madagascar"、1933年)は、彼が出版した最も詳細な民族誌となった。 米国への帰国後、リントンは、社会学部に人類学科が増設されることになったウィスコンシン大学マディソン校で教職に就くことになった。ここでリントンは、のちに独立した人類学部となる新しい部門の最初の教員スタッフの一員となったわけである。 当時の彼の教え子の何人かは、後に重要な人類学者になっている。たとえば、クライド・クルックホーン、マービン・オプラー、フィレオ・ナッシュ、ソル・タックスなどである。この頃までのリントンは、まだまだ空想的な気分に浸った研究者だったが、ウィスコンシン大時代は、彼が理論家として教え、本を執筆する能力を磨き始めた期間である。この事実は、彼の人気の文章スタイルと当時シカゴ大学に居たラドクリフ・ブラウンとの知的な交と相まって、彼の教科書『文化人類学入門』("The Study of Man"、1936)を生み出した。この期間中に、彼はアデライン・ホールフェルドと三度目の結婚をしている。彼女は、彼の秘書で編集者で、彼らが共同で出版した人気作品("Halloween Through Twenty Centuryes"など)の多くは実際、完全にアデライン・ホールフェルドによって書かれたものである。1937年、リントンは、フランツ・ボウズの引退したあとのコロンビア大学に戻り、考古学部の学部長に任命された。この人事には、リントンに良い感情を抱いていなかったボアズの弟子たちから反発の声が上がった。ボアズの一派は、ルース・ベネディクトがボアズの後継者になることを期待していたからである。学部長として、リントンはボアと彼の学生の多くを共産主義者だとして避難し、FBIに通報した。これにより、ジーン・ウェルトフィッシュのように、一部の教員が解雇されてブラックリストに登録された。リントンは生涯を通じて、ボアズの一派、特にルース・ベネディクトに対して強い個人的な敵意を持ち続け、文化と人格という研究アプローチに対する激しい批評家だった。イェール大学でのリントンの同僚だったシドニー・ミンツによると、彼はタナラの魔法の魅惑を使ってベネディクトを殺したことを冗談で自慢したことさえあったというは第二次世界大戦が勃発し、リントンは、戦争計画に関わるようになったし、戦争と米国(とアメリカの人類学)の役割についての彼の考えは戦後のいくつかの作品に反映している。最も顕著に見られたのは『世界危機における人間の科学』("The Science of Man in the World Crisis" 、1945年 )、『世界の大半』("Most of World"、1945年)である。戦争中にも、リントンも南米への長期の旅行を企て、そこで彼は冠状動脈閉塞を経験し、以後不安定な健康状態に陥った。戦後、リントンはイェール大学に移った。イェール大学は、当時、米国政府と協力していたジョージ・マードックなどの人類学者の中心地になっていた。彼は1946年から1953年までそこで教え、そこで文化と人格に関する執筆を続けた。この期間に彼は、『人類学的世界史ー文化の木』("The Tree of Culture")を書き始めている。リントンは、1959年アメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選出された。彼は1953年のクリスマスイブに南米旅行に関連した合併症でなくなった。未完のまま残された『人類学的世界史ー文化の木』は、アデライン・ホールフェルドが完成され好評の大学教科書になった。
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