墨跡の伝来
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中国禅僧の墨跡は、日本人留学僧が中国から持ち帰ったものと元や清の異民族国家を逃れた亡命僧たちが来朝後に書いたものとに大別される。 留学僧が将来した墨跡 無準師範の法嗣、東福寺の開山・円爾は、嘉禎元年(1235年)から6年間、南宋に留学した。この頃、南宋では張即之が書法の大家として名声をほしいままにしていた時代である。円爾は書法に深い関心を持っており、張即之の法に私淑し、帰朝に際して張即之の書を持ち帰っている。現在、東福寺には、「首座」・「書記」・「方丈」・「前後」・「栴檀林」・「東西蔵」などと書かれた大きな額字が蔵されているが、張即之の筆と伝えられるもので、みな円爾が持ち帰ったものといわれている。 中国の著名な禅僧のもとには、日本だけでなく朝鮮からも多く集まり、その参徒数は中国人を凌ぐほどであったという。円爾の他、この時期の主な日本人留学僧には、虚堂智愚に嗣法した南浦紹明、断橋妙倫に参じた無関普門、希叟紹曇に参じた白雲慧暁などがいる。 元代になるとその墨跡は趙孟頫の影響を受けて書法的にすぐれたものが多く、これら趙孟頫の書法を伝えたのは、雪村友梅や寂室元光などの留学僧である。さらに無隠元晦などの留学僧によって馮子振の清新な書風の書がもたらされ、やはり禅林の書と同様に墨跡とよばれて茶人の間で愛玩された。 このように入宋・入元した禅僧は、その参禅した師匠から書き与えられた印可状・字号・法語・偈頌などを持ち帰えり、それが大切に保存されて墨跡として珍重されている。それらの墨跡の中で特に注目されたものは、まず第一に今日、日本に伝わる最古の圜悟克勤のもの、その法嗣の大慧宗杲のもの、密庵咸傑・無準師範・虚堂智愚など虎丘派のもので、圜悟克勤の系統の楊岐派のものにほぼ限られている。これらの禅僧も張即之と交流を結び、その影響を受けた者が多い。元代の墨跡では松源派の古林清茂・月江正印・了庵清欲、大慧派の楚石梵琦などのものが注目され、趙孟頫の影響を受けている。 来朝僧の墨跡 禅宗は鎌倉幕府に迎えられ、武家の帰依をえて鎌倉五山が定められた。そのため僧侶の地位は高く、墨跡はますます盛行した。鎌倉時代中頃になると幕府は禅宗を重視し、日本の禅僧の誘いや幕府の招聘を受けて、優れた中国の禅僧が来朝するようになった。その来朝僧の第一は建長寺の開山・蘭渓道隆であり、その書風は張即之と見違えるほどである。この円爾と蘭渓道隆によって張即之の書は日本の新書風の典型となり、禅家に尊ばれて墨跡と同様に鑑賞されている。 その他、来朝した中国の名僧には、宋代では兀庵普寧・大休正念、元代では無学祖元・一山一寧・西礀子曇・霊山道隠・清拙正澄・明極楚俊・竺仙梵僊などがいる。これには日本側の懇請とともに、南宋末の政争や異民族国家である元朝への屈従に対する不満があったといわれている。そして彼らは来朝後に多くの墨跡を遺した。 また明末には、萬福寺を創建して日本黄檗宗の開祖となった隠元隆琦などの禅僧の来朝が続いたが、南宋末の時と同様にその背景には満州民族の侵攻による明の滅亡という事態があった。隠元隆琦をはじめとする明の一流文化人の亡命は、禅のみでなく明代の文人趣味、いわゆる黄檗文化を持ち込み、日本文化に大きな影響を与えた。よって黄檗僧は宗教家というよりも文化人として受け入れられた面が強く、その黄檗文化を代表するものとして、絵画・書・篆刻・文学などをあげることができる。そして黄檗僧の中でも特に能書の3人、隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一(黄檗の三筆)の筆跡が墨跡として尊重された。その書の特徴は、濃墨を用いた太い字画、明末の狂草体の構成、一行書などである。また承応2年(1653年)に来朝し、隠元について僧侶となった独立性易の墨跡は、黄檗僧のうち最も本格的な書で、祖国にあったときから書名が高く、『佩文斎書画譜』にもその伝がある。その筆法の正しい独立性易の書は、やがて儒学者や漢学者の間に流行して一世を風靡した唐様の先駆けとなった。 なお、この唐様ブームは江戸時代中期からであるが、このブームの下地は明の文化人の来朝の時、つまり江戸時代初頭にすでにあった。それは江戸幕府草創期に打ち出された儒学奨励策が中国文化尊重の気運を高め、日本への新書風の受け入れ体制を整えていたのである。
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墨跡の伝来
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中国の歴史 先史時代 古国時代(三皇五帝) (黄河文明・長江文明・遼河文明) 夏 殷 周(西周) 周(東周) 春秋時代 戦国時代 秦 漢(前漢) 新 漢(後漢) 呉(孫呉) 漢(蜀漢) 魏(曹魏) 晋(西晋) 晋(東晋) 十六国 宋(劉宋) 魏(北魏) 斉(南斉) 梁 魏(西魏) 魏(東魏) 陳 梁(後梁) 周(北周) 斉(北斉) 隋 唐 周(武周) 五代十国 契丹 宋(北宋) 夏(西夏) 遼 宋(南宋) 金 元 明 元(北元) 明(南明) 順 後金 清 中華民国 満洲 中華人民共和国 中華民国(台湾) 日本に禅宗が伝来して以後、宋・元の間、日本では鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、禅僧の往来が頻繁になった。入宋僧は80人以上、宋から来日した僧は20人以上が知られ、元に至ってその交易はいっそう活発になり、入元僧は200人以上、元からの渡来僧は鎌倉幕府がその来日を制限しようとしたほど多くなったという。このように両国の交流は禅僧を介して密接になり、その影響は日本の政治・文学・建築・芸術にまで及び、書道の方面も中国の禅僧の墨跡が伝来して鎌倉時代の禅林の間に流行した。以下、その時代背景と墨跡の伝来について記す。
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