墨跡の伝来とは? わかりやすく解説

墨跡の伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:29 UTC 版)

禅林墨跡」の記事における「墨跡の伝来」の解説

中国禅僧墨跡は、日本人留学僧が中国から持ち帰ったものと元や清の異民族国家逃れた亡命僧たちが来朝後に書いたものとに大別される留学僧が将来した墨跡 無準師範法嗣東福寺開山円爾は、嘉禎元年1235年)から6年間、南宋留学したこの頃南宋では張即之が書法大家として名声ほしいままにしていた時代である。円爾書法に深い関心持っており、張即之の法に私淑し帰朝に際して張即之の書を持ち帰っている。現在、東福寺には、「首座」・「書記」・「方丈」・「前後」・「栴檀林」・「東西」などと書かれた大きな額字が蔵されているが、張即之の筆と伝えられるもので、みな円爾持ち帰ったものといわれている。 中国著名な禅僧のもとには、日本だけでなく朝鮮からも多く集まり、その参徒数は中国人凌ぐほどであったという。円爾の他、この時期主な日本人留学僧には、虚堂智愚嗣法した南浦紹明断橋妙倫に参じた無関普門、希叟紹曇に参じた白雲慧暁などがいる。 元代になるとその墨跡趙孟頫影響受けて書法的にすぐれたものが多く、これら趙孟頫書法伝えたのは、雪村友梅寂室元光などの留学僧である。さらに無隠元晦などの留学僧によって馮子振清新な書風の書がもたらされ、やはり禅林の書と同様に墨跡よばれて茶人の間で愛玩された。 このように入宋入元した禅僧は、その参禅した師匠から書き与えられ印可状字号法語偈頌などを持ち帰えり、それが大切に保存され墨跡として珍重されている。それらの墨跡の中で特に注目されたものは、まず第一に今日日本に伝わる最古圜悟克勤のもの、その法嗣大慧宗杲のもの、密庵咸傑無準師範虚堂智愚など虎丘派のもので、圜悟克勤系統楊岐派のものにほぼ限られている。これらの禅僧も張即之と交流を結び、その影響受けた者が多い。元代墨跡では松源派古林清茂月江正印了庵清欲大慧派楚石梵琦などのものが注目され趙孟頫影響受けている。 来朝僧の墨跡 禅宗鎌倉幕府迎えられ武家帰依をえて鎌倉五山定められた。そのため僧侶地位高く墨跡はますます盛行した鎌倉時代中頃になると幕府禅宗重視し日本の禅僧の誘い幕府招聘受けて優れた中国禅僧来朝するようになった。その来朝僧の第一建長寺開山蘭渓道隆であり、その書風は張即之と見違えるほどである。この円爾蘭渓道隆によって張即之の書は日本新書風の典型となり、禅家尊ばれ墨跡同様に鑑賞されている。 その他、来朝し中国名僧には、宋代では兀庵普寧大休正念元代では無学祖元一山一寧西礀子曇霊山道隠清拙正澄明極楚俊竺仙梵僊などがいる。これには日本側の懇請とともに南宋末の政争異民族国家である元朝への屈従対する不満があったといわれている。そして彼らは来朝後に多く墨跡を遺した。 また明末には、萬福寺創建し日本黄檗宗開祖となった隠元隆琦などの禅僧来朝続いたが、南宋末の時と同様にその背景には満州民族侵攻による明の滅亡という事態があった。隠元隆琦はじめとする明の一流文化人亡命は、禅のみでなく明代文人趣味いわゆる黄檗文化持ち込み日本文化大きな影響与えた。よって黄檗僧は宗教家というよりも文化人として受け入れられた面が強く、その黄檗文化代表するものとして、絵画書・篆刻文学などをあげることができる。そして黄檗僧の中でも特に能書の3人、隠元隆琦木庵性瑫即非如一黄檗の三筆)の筆跡墨跡として尊重された。その書の特徴は、濃墨用いた太い字画明末狂草体の構成一行書などである。また承応2年1653年)に来朝し隠元について僧侶となった独立性易墨跡は、黄檗僧のうち最も本格的な書で、祖国にあったときから書名高く、『佩文斎書画譜』にもその伝がある。その筆法正し独立性易の書は、やがて儒学者漢学者の間に流行して一世を風靡した唐様先駆けとなった。 なお、この唐様ブーム江戸時代中期からであるが、このブーム下地は明の文化人来朝の時、つまり江戸時代初頭にすでにあった。それは江戸幕府草創期打ち出され儒学奨励策中国文化尊重気運高め日本への新書風の受け入れ体制整えていたのである

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墨跡の伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:43 UTC 版)

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中国の歴史 先史時代 古国時代三皇五帝) (黄河文明長江文明遼河文明) 夏 殷 周西周) 周(東周春秋時代 戦国時代 秦 漢前漢) 新 漢(後漢) 呉(孫呉) 漢(蜀漢) 魏(曹魏) 晋(西晋) 晋(東晋十六国 宋(劉宋) 魏(北魏) 斉(南斉 魏(西魏) 魏(東魏) 陳 (後梁) 周(北周) 斉(北斉) 隋 唐 周(武周五代十国 契丹 宋(北宋) 夏(西夏) 遼 宋(南宋金 元 明 元(北元) 明(南明) 順 後金 清 中華民国 満洲 中華人民共和国 中華民国台湾日本禅宗伝来し以後、宋・元の間、日本では鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、禅僧往来頻繁になった。入宋僧は80人以上、宋から来日した僧は20人以上が知られ元に至ってその交易はいっそう活発になり、入元僧は200人以上、元からの渡来僧は鎌倉幕府がその来日制限しようしたほど多くなったという。このように両国の交流禅僧を介して密接になり、その影響日本の政治文学建築芸術にまで及び、書道方面中国禅僧墨跡伝来し鎌倉時代禅林の間に流行した。以下、その時背景と墨跡の伝来について記す。

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