制定までの歴史
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「国際藻類・菌類・植物命名規約」の記事における「制定までの歴史」の解説
今でこそ、ほとんどの生物に用いられている学名であるが、最初にこのシステム(二名法)を使ったスウェーデンの分類学者リンネ(大リンネ)が植物学者であったため、学名の起点は動物より植物の方が古い。 (動物も含めた)学名の起点は、リンネの Systema Naturae(『自然の体系』)第10版(2巻、1758-1759年、初版:1753年)とされている。植物においては、同じくリンネの Species plantarum(『植物の種』初版、1753年)であり、これが植物の命名法の起点の最古である。命名規約制定当初は、一部にやはりリンネの Flora Lapponica(1735年)を起点にすべきだとの意見もあった。しかし現在認められているのは、ほとんどの分類群においてこの書の発行を学名の起点としており、別書が起点に設定されている場合には全てこれ以降の出版である。 命名法の国際基準化における最初の試みは、1864年にブリュッセルの第1回植物学年会においてアルフォンス・ド・カンドルが国際規約の草案制作を委託されたことに端を発する。彼は亡き父、オーギュスタン・ド・カンドルが1813年に著した Théorie élémentarie de la Botanique(『植物学の基本理論』) などを参考に、その仕事を完遂した。 その成果は、3年後1867年にパリでフランス植物協会 (Société botanique de France) によって開催された、第4回植物学年会において "Lois de la nomenclature botanique"("Lois"、「ド・カンドル法」、「パリ法」などとも略される)として公布された。これは国際的な植物命名規約としては世界初のものであった。ところが、イギリス、ドイツ、アメリカなどの国はこの規約を拒否する。そのため、形だけの国際基準に終わってしまった。 実質的な国際基準としての規約が完成するのは、1905年のウィーンにおける第2回国際植物学会議を待たねばならなかった。この会議上で採択され翌年発行された規則が、現在のものに直接つながる「国際植物命名規約」である。本規則は1867年のド・カンドル法を基本とするものであったが、この時にはイギリス・ドイツを初めとするほとんどの国がこれを受け入れた。一般的にはこれをもって国際命名規約の発行とみなされている。しかしながら、アメリカの学者は意見の相違からこのド・カンドル法を基とした国際規則に反発していた。ついには1904年に採択したアメリカ植物命名規約 (American Code of Botanical Nomenclature) を独自規約とし、ニューヨーク植物園とコロンビア大学の研究者が中心となって国際植物命名規約に反旗を翻す結果となった。以後、四半世紀に渡ってこの対立構造は続くこととなる。このアメリカの離反が解消されたのは、1930年のケンブリッジにおける第5回国際植物学会議においてであった。ここまでにおけるアメリカ植物命名規約の国際植物命名規則に対する差異の主な例は以下のようになる。 保存名もしくはそれに相当するものの規定がない。 記載にラテン語が必須でない。 たった一つの模式標本によってタクソンを決定する。 この会議において、国際植物学会議はアメリカ派の主張を盛り込んだ改正を行った。すなわち、例での3番目の点である、「模式標本は単一の標本でなければならない」という条文が国際植物命名規則に加えられたのである。逆に言えば、それまでの国際植物命名規則は複数の標本を模式標本として認めており、むしろ現在の常識に反していたことになる。同時期にすでに模式標本を単一と決めていた動物分類学に対し、「個体」が明確でなく変異の幅も非常に大きい植物の場合、典型的な器官を網羅するためには複数標本もやむを得ないとの判断だったという見方もある。しかし、この点についてはアメリカ派の主張が正しかったというのが現在でも一般的な見解である。 この非常に重要な点での主張が受け入れられたことにより、ラテン語使用などの他の点を譲歩して、アメリカ派は独自規約から国際規約に移行することを承諾した。ここにいたって国際植物命名規則は真に「国際的な規約」となったのである。
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制定までの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 21:17 UTC 版)
よく知られているように、学名の歴史はリンネに遡る。動物の場合、命名法の起点は Linnaeus 『Systema Naturae』第10版、Clerck『Aranei Svecici』が出版された1758年(Clerckの著作は前年の刊行だが、起点とするため1758年と見なされる。 ICZN 3.1.)に設定されている。しかしながら、その国際的に統一された基準の設定にはその後長い時間を必要とした。 イギリスのヒュー・ストリックランドを中心とするグループは独自に動物命名法の案を練っていた。その成果は、チャールズ・ダーウィン、リチャード・オーウェン等で構成された委員会によって1842年に公表された。「ストリックランド規約」(英国協会規約)とも呼ばれるこの規約は他言語にも翻訳され、各国に影響を与えたという意味で国際基準化の嚆矢と言えなくもない。しかし、あくまでイギリス一国の規約にとどまっている。 真の国際基準化は1889年パリでの第1回国際動物学会議に始まる。その会議において議論された草案は、第3回会議(ライデン、1895年)での動物命名法国際審議会 (International Commission on Zoological Nomenclature) の発足と審議を経て、第5回会議(ベルリン、1901年)で採択された。それが『Règles internationales de la Nomenclature zoologique』(1905年)である。本書は仏語のみが正本とされており、同時出版された独語版と英語版 (International Rules of Zoological Nomenclature) は訳本という形になっている。日本語での呼称は『萬国動物命名規約』であり、後の国際動物命名規約を新規約と呼ぶのに対し旧規約とも呼ばれる。 萬国動物命名規約はその後数回にわたる国際動物学会議において改正を繰り返し、国際規約としての重役をおよそ半世紀の間務め続けることとなる。しかし、この旧規約には不備も多く、条項の修正や追加では対応できないとする意見が徐々に大勢になり始めた。それを受け、第13回国際動物学会議(パリ、1948年)で旧規約の総合改訂を行うことが決定する。 そして1958年ロンドンでの第15回国際動物学会議において正式に採択され1961年に発行されたのが、新規約とも呼ばれる本規約「国際動物命名規約」(International Code of Zoological Nomenclature) である。
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