制定までの歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 制定までの歴史の意味・解説 

制定までの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 10:19 UTC 版)

国際藻類・菌類・植物命名規約」の記事における「制定までの歴史」の解説

今でこそ、ほとんどの生物用いられている学名であるが、最初にこのシステム二名法)を使ったスウェーデン分類学者リンネ(大リンネ)が植物学者であったため、学名起点動物より植物の方が古い。 (動物含めた学名起点は、リンネSystema Naturae(『自然の体系』)第10版(2巻、1758-1759年、初版1753年)とされている。植物においては、同じくリンネSpecies plantarum(『植物の種初版1753年)であり、これが植物の命名法起点最古である。命名規約制定当初は、一部にやはりリンネFlora Lapponica(1735年)を起点にすべきだとの意見もあった。しかし現在認められているのは、ほとんどの分類群においてこの書の発行学名起点としており、別書起点設定されている場合には全てこれ以降出版である。 命名法国際基準化における最初試みは、1864年ブリュッセル第1回植物学年会においてアルフォンス・ド・カンドル国際規約草案制作委託されたことに端を発する。彼は亡き父、オーギュスタン・ド・カンドル1813年著した Théorie élémentarie de la Botanique(『植物学基本理論』) などを参考に、その仕事完遂した。 その成果は、3年後1867年パリフランス植物協会 (Société botanique de France) によって開催された、第4回植物学年会において "Lois de la nomenclature botanique"("Lois"、「ド・カンドル法」、「パリ法」などとも略される)として公布された。これは国際的な植物命名規約としては世界初のものであった。ところが、イギリスドイツアメリカなどの国はこの規約拒否する。そのため、形だけの国際基準終わってしまった。 実質的な国際基準としての規約完成するのは、1905年ウィーンにおける第2回国際植物学会議を待たねばならなかった。この会議上で採択され翌年発行され規則が、現在のもの直接つながる「国際植物命名規約」である。本規則1867年のド・カンドル法を基本とするものであったが、この時にはイギリス・ドイツ初めとするほとんどの国がこれを受け入れた一般的にはこれをもって国際命名規約発行みなされている。しかしながらアメリカの学者意見の相違からこのド・カンドル法を基とした国際規則反発していた。ついには1904年採択したアメリカ植物命名規約 (American Code of Botanical Nomenclature) を独自規約とし、ニューヨーク植物園コロンビア大学研究者中心となって国際植物命名規約反旗を翻す結果となった以後四半世紀渡ってこの対立構造は続くこととなる。このアメリカ離反解消されたのは、1930年ケンブリッジにおける第5回国際植物学会議においてであったここまでにおけるアメリカ植物命名規約国際植物命名規則対す差異主な例は以下のようになる保存名もしくはそれに相当するもの規定がない。 記載ラテン語必須でない。 たった一つ模式標本によってタクソン決定する。 この会議において、国際植物学会議アメリカ派の主張盛り込んだ改正行った。すなわち、例での3番目の点である、「模式標本単一標本なければならない」という条文国際植物命名規則加えられのである逆に言えばそれまで国際植物命名規則複数標本模式標本として認めており、むしろ現在の常識反していたことになる。同時期にすでに模式標本単一決めていた動物分類学対し、「個体」が明確でなく変異の幅も非常に大き植物の場合典型的な器官網羅するためには複数標本やむを得ないとの判断だったという見方もある。しかし、この点についてはアメリカ派の主張正しかったというのが現在でも一般的な見解である。 この非常に重要な点での主張受け入れられたことにより、ラテン語使用などの他の点を譲歩してアメリカ派は独自規約から国際規約移行することを承諾した。ここにいたって国際植物命名規則真に国際的な規約となったのである

※この「制定までの歴史」の解説は、「国際藻類・菌類・植物命名規約」の解説の一部です。
「制定までの歴史」を含む「国際藻類・菌類・植物命名規約」の記事については、「国際藻類・菌類・植物命名規約」の概要を参照ください。


制定までの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 21:17 UTC 版)

国際動物命名規約」の記事における「制定までの歴史」の解説

よく知られているように、学名歴史リンネ遡る動物の場合命名法起点は Linnaeus 『Systema Naturae』第10版、Clerck『Aranei Svecici』が出版され1758年(Clerckの著作前年刊行だが、起点とするため1758年見なされるICZN 3.1.)に設定されている。しかしながら、その国際的に統一され基準設定にはその後長い時間を必要とした。 イギリスのヒュー・ストリックランドを中心とするグループ独自に動物命名法の案を練っていた。その成果は、チャールズ・ダーウィンリチャード・オーウェン等で構成され委員会によって1842年公表された。「ストリックランド規約」(英国協会規約)とも呼ばれるこの規約他言語にも翻訳され各国影響与えたという意味で国際基準化嚆矢と言えなくもない。しかし、あくまでイギリス一国規約とどまっている。 真の国際基準化1889年パリでの第1回国際動物学会議に始まる。その会議において議論され草案は、第3回会議ライデン1895年)での動物命名法国際審議会 (International Commission on Zoological Nomenclature) の発足審議経て第5回会議ベルリン1901年)で採択された。それが『Règles internationales de la Nomenclature zoologique』(1905年)である。本書仏語のみが正本とされており、同時出版され独語版英語版 (International Rules of Zoological Nomenclature) は訳本という形になっている日本語での呼称は『萬国動物命名規約』であり、後の国際動物命名規約新規約と呼ぶのに対し旧規約とも呼ばれる萬国動物命名規約その後数回にわたる国際動物学会議において改正繰り返し国際規約としての重役をおよそ半世紀の間務め続けることとなる。しかし、この旧規約には不備多く条項修正追加では対応できないとする意見徐々に大勢になり始めた。それを受け、第13回国際動物学会議(パリ1948年)で旧規約の総合改訂を行うことが決定する。 そして1958年ロンドンでの第15回国際動物学会議において正式に採択され1961年発行されたのが、新規約とも呼ばれる規約国際動物命名規約」(International Code of Zoological Nomenclature) である。

※この「制定までの歴史」の解説は、「国際動物命名規約」の解説の一部です。
「制定までの歴史」を含む「国際動物命名規約」の記事については、「国際動物命名規約」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「制定までの歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「制定までの歴史」の関連用語

制定までの歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



制定までの歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの国際藻類・菌類・植物命名規約 (改訂履歴)、国際動物命名規約 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS